山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:小さな者への神の愛(マタイによる福音書18:10-14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
普段の生活の中で「小さな存在」について立ち止まって考えことがあるでしょうか。
都会の歩道の隅にひっそりと咲く小さな花。誰も気づかずに通り過ぎてしまいますが、よく見れば、精いっぱいに空へ顔を向け、美しく咲いています。あるいは、家庭の中で一番小さな子どもの声。大人たちの会話の中ではかき消されてしまいますが、その声に耳を傾けると、思いもよらない大切な真実を語ってくれていることがあります。
しかし、私たちの社会はどうでしょうか。しばしば「大きなもの」「目立つもの」「強いもの」に価値を置きます。小さな声、弱い存在、隅に追いやられた人々は、ないがしろにされ、忘れ去られてしまいます。
きょう取り上げる聖書の個所には、「小さな者」に目を留められる神の心が鮮やかに描き出されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書18章10節~14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
今お読みしたイエス・キリストのお言葉は、突然語られたわけではありません。その直前の流れをたどることが大切です。
マタイによる福音書18章の初めに、弟子たちはイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。人間らしい問いですが、誰が上か、誰が下か、私たちの心はすぐに順位や序列を気にしてしまいます。
イエスはその問いに対して、一人の小さな子どもを呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせました。そして言われます。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
つまり、神の国で大切にされるのは、大きな力を持つ人ではなく、小さな子どものように神に信頼する人なのです。
この流れの中で「小さな者を軽んじてはならない」という警告が語られ、さらに「迷い出た一匹の羊」のたとえが続きます。
ここで羊と羊飼いのたとえをもう少し掘り下げましょう。
イエスの時代、羊と羊飼いの光景は人々にとってごく身近なものでした。羊は臆病で、方向感覚も弱く、簡単に群れからはぐれてしまいます。暗闇の中で驚いて逃げたり、食べ物を求めてふらふら歩いていったり…。迷子になった羊は天敵の狼や崖、渇きにさらされ、命を落とす危険があります。
だからこそ、羊飼いにとって「一匹の迷子」は大きな問題でした。百匹の中の一匹だからいいだろう、とは思えません。その一匹を見つけ出すために羊飼いは必死に探します。
イエスがこのたとえを語ったとき、人々はきっと「そうだ、羊飼いはそうする」とうなずいたに違いありません。
さて、ここで気になる言葉があるかもしれません。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。これはどういう意味でしょうか。
伝統的に多くの解釈があります。一つは、子どもや「小さな者」には守りの天使が与えられている、という理解です。守護天使という考え方は、ユダヤの伝統にも新約聖書の他の箇所にも見られます。
もう一つは、これは象徴的な表現だという見方です。「天使」という形で表現することで、神が小さな者を常に見守り、弁護し、神ご自身の前にその存在を覚えてくださることを示している、というのです。
どちらにしても大切なのは一点です。小さな者は神から見過ごされることはない、ということです。人々が軽んじ、忘れ去ろうとも、天においては彼らの存在が尊重され、神の御前で記憶されています。
では、「一匹の迷い出た羊」とは何を表しているのでしょうか。
迷うとは、単に道を間違えることだけではありません。群れとの関係が断たれ、孤立することを意味します。群れから離れた羊は命の糧を失い、危険にさらされます。これは、罪に迷い、信仰を失い、共同体から離れてしまった人の姿です。
大多数は残っているのだから一人くらい仕方がない、そう考えるのが人間的な発想です。しかし神はそうではありません。一人を失うことを深く悲しみ、その一人を探しに行かれます。そして見つけ出したとき、九十九匹以上に喜ばれる。これが神の愛の姿なのです。
考えてもみれば、一人を見過ごす人は、次の一人が失われても、無関心です。
ここで二つの誤解を解いておきましょう。
第一に、「九十九匹を残して」という言葉を文字どおりに受け取り、「神は九十九匹を見捨ててしまうのか」と思ってしまうことです。しかしそうではありません。当時の羊飼いは群れを安全な囲いに入れたり、仲間に見張りを頼んだりして、一時的に群れを守る術を持っていました。イエスは、見捨てるのではなく、それほどまでに失われた一人を探す神の心を示しているのです。
第二に、「天使」という言葉を迷信的だと切り捨ててしまう誤解です。これは、文字通りに天使を理解するにせよ、象徴的に理解するにせよ、核心は同じです。小さな者を見逃さない神の注意深さがここにあるのです。
では、この言葉は現代を生きる私たちに何を語るのでしょうか。
第一に、教会は数字や規模よりも、一人一人の回復を大切にすべきです。プログラムや組織を整えることも必要ですが、何よりも「小さな者に目を向ける文化」を育むことが求められています。
第二に、私たち個人も、迷っている人に対して非難ではなく、耳を傾ける姿勢を持たなければなりません。教会を離れた人、心が揺れている人、弱さの中にある人に、寄り添うこと。まず理解しようとすること。それが神の心にかなう態度です。そして、その人が離れていった原因が、自分たちの中にあるのではないかと考える謙虚さも大切です。
第三に、見つけ出した人を受け入れ、共同体の中で再び生きることを支えることが大切です。救いは「見つけて終わり」ではありません。尊厳を回復し、歩みを支えるところまで含まれています。
神は目立つ者、強い者に目を向けるのではありません。弱さの中にある人、小さな者に価値を見出されます。人が忘れた一人を、神は決して忘れません。
あなたの周りに「小さな者」はいませんか。声を上げられない人、孤立している人、迷っている人。その人の顔を思い浮かべてください。そして、その人のために小さな一歩を踏み出してください。電話一本、短い訪問、ただそばに寄り添うこと。それが神の国にとって大きな価値を持ちます。
イエスはおっしゃいました。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。これこそが神の愛の心なのです。