聖書を開こう

つまづかせないために(マタイによる福音書18:6-9)

放送日
2025年9月11日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:つまづかせないために(マタイによる福音書18:6-9)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 こんな経験をした人は、いませんか。小さな子どもに「大丈夫、見ててあげるから、あそこで遊んでおいで」と言ったのに、スマホに届いたメッセージに気を取られている間に、子供が怪我をしてしまった。

 そんなことは、だれにでも起こりうることです。子どもは大人よりも弱く、ちょっとしたことで危険にさらされてしまいます。だからこそ、大人がしっかり見守り、こどもの信頼を裏切るようなことがあってはなりません。

 イエスはこの「弱い存在をつまずかせる」ことについて、とても強い言葉で語られました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書18章6節~9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 今お読みした言葉が記されているのはマタイによる福音書18章です。この章全体は「教会という共同体での生き方」がテーマになっています。弟子たちが「天の国で一番偉いのは誰ですか」と尋ねたことから始まって、イエスは小さな子どもを真ん中に立たせ、「心を入れ替えて子どものようにならなければ、天の国に入れない」とおっしゃいました。

 その流れの中で、今日の「小さな者をつまずかせるな」という言葉が出てきます。つまり、共同体の中で弱い人、信仰の浅い人、影響を受けやすい人をどう扱うか、が問われています。

 では、ここでいう「つまずき」とは何でしょうか。

 実はここで使われているギリシア語は「スキャンダル」という単語の語源になる言葉です。本来の意味は文字通りの「罠」や「落とし穴」を意味する言葉でしたが、ヘブライ語の聖書をギリシア語に翻訳する際に、ヘブライ語が持つ比ゆ的な意味が加わるようになりました。

 その用法はイエス・キリストの時代のユダヤ社会でも引き継がれていました。「つまずき(スカンダロン)」という言葉は、単なる物理的な障害ではなく、人を罪に陥らせる原因、信仰から引き離すきっかけを意味しました。そうであればこそ、イエスは、それがどれほど深刻かを強調してやみません。

 「つまずき」は誰かを神から遠ざけ、信仰を失わせる原因になる行動です。

 たとえば、大人の偽善的な態度がそうです。口では立派なことを言いながら、実際には全く逆の生活をしていたらどうでしょう。そういう姿を見た若い人や初心者は、「結局、信仰って嘘なんだ」と思ってしまうでしょう。

 また、権力や立場を使って弱い人を抑え込む態度もそうです。あるいは指導者が金銭や性的なスキャンダルを起こす。そんなことがあれば、多くの人の信仰が揺さぶられます。

 あるいはもっと身近に、冷たい態度や無関心が「つまずき」となることもあります。「教会に行っても誰も歓迎してくれない」「質問したのに馬鹿にされた」…そういう経験で心を閉ざす人もいます。

 つまり「つまずき」とは、誰かを罪や疑いに導き、神への信頼や希望を奪ってしまうことです。私たちの言葉や態度が意図せずとも他人を傷つけてしまう、その重さをイエスは指摘しておられるのです。

 では次に「小さな者」とは誰でしょう。

 文字通りには、子どもを指していることは確かです。しかし、文脈から見ると、それに限りません。信仰を始めたばかりの人、知識が浅くて影響を受けやすい人、社会的に弱い立場にある人、心に傷を抱えている人…そうした人たち全部を含みます。

 つまり「小さな者」とは、守られるべき存在、配慮されるべき存在です。イエスはその人たちを特別に大切にされました。だからこそ、彼らをつまずかせることは重大な罪だと強く語られたのです。

 さらに衝撃的なのは、「もし手や足がつまずかせるなら切り捨てろ」「目ならえぐり出せ」という言葉です。これは文字どおりの意味ではありません。イエスがよく使われた誇張表現、強調のための比喩です。

 誰も本当に自分の目や手を切り取ることを望んではいません。でも、それほど決定的に、はっきりと、罪の原因や誘惑から距離を置け、ということです。

 たとえば個人レベルで言えば、自分をいつも罪へ引き込むような環境や関係を断ち切る勇気を持つこと。教会のレベルで言えば、不正や不祥事を放置せず、はっきりと責任を取らせることです。

 目的はただ「断つ」ことではありません。むしろ、人を守り、回復させることが大切です。厳しい言葉の背後には、人を生かしたい、命へ導きたいというイエスの深い願いがあります。これはつまずいた者たちばかりではなく、つまずかせてしまった者たちも含めて、神との正しい関係に立ち返り、両者が神の家族としての関係を回復することが目的です。

 では、この言葉は現代の私たちにどう響くでしょうか。いくつか例を挙げてみます。

 まずは指導者の責任ということです。教会のリーダーが不正をすれば、それは多くの人をつまずかせます。隠すのではなく、透明性を持ち、責任を取ることが大切です。

 第二に、言葉の責任について考えさせられます。軽い冗談や批判的な言葉が、誰かの心を深く傷つけることがあります。特にSNSの時代、発言は多くの人に影響します。

 第三に、生活の一致についての思いを深めます。日常の生活が信仰と食い違っていたら、周りの人は信仰に幻滅してしまいます。誠実に生きることが、何よりの証しです。

 第四に、弱い人への配慮を大切にすることです。子どもや弱い立場の人が安心して信仰を持てるように、環境を整えること…これは教会の大きな責任です。

 そして最後に、自分を守ることをおろそかにしないことです。誘惑や悪習から自分を遠ざける。どうしてもやめられないことがあるなら、助けを求め、関係を断つ勇気を持つ、ということです。

 イエスの言葉は厳しく聞こえますが、その根っこには愛があります。弱い人を守るため、命を守るために、私たちに真剣さを求めておられるのです。

 確かに、今あげたいくつかの事柄を完ぺきに守ることは難しいかもしれません。難しいからこそ、今もつまずきは教会の中から完全に消えることはありません。しかし、難しさを言い訳にしてはいけません。むしろ、足りなさに気が付き、神の前に悔い改めて前に進むことが大切です。

 ですからきょう、私たちも自分の言葉や行動を振り返って見ることが大切です。誰かをつまずかせていないか。無意識に誰かを遠ざけていないか。それは、リーダーだけに求められていることではありません。自分よりも後に信仰に入った人がいるなら、その人のつまずきになってはいないか、いつも注意を払うことが大切です。もし、誰かをつまずかせていることに気が付いたなら、すぐに立ち止まり、悔い改め、守る側に回ることを、神に真剣に求めましょう。

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