山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:見えないパン種に気をつけよ(マタイによる福音書16:5-12)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
パンを作るときに欠かせないものと言ったら何でしょうか。小麦粉や水。それを焼くためのオーブンも必要です。しかし、それだけではふっくらとしたパンは出来上がりません。ほんの少しの酵母、いわゆる「パン種」を加えることで、ふわっとした柔らかいパンに変わります。目に見えるか見えないかというほどの少しのパン種が、粉全体に行き渡り、全体を変化させます。
この「パン種」が、今日の聖書のメッセージの重要な鍵になります。実はパン種については、この福音書の13章で神の国のたとえとして用いられました。その時は良い意味でパン種は全体に影響を与えるたとえとして用いられましたが、きょう取り上げるパン種は悪い意味で全体に影響を与えるたとえとして用いられます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書16章5節~12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾篭に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾篭に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
きょうの物語の舞台は、ガリラヤ湖のほとりです。イエス・キリストと弟子たちは舟に乗り、湖の向こう岸へと渡ります。その途中、弟子たちはあることに気づきます。「しまった、パンを持ってくるのを忘れた」。
旅の途中でパンがないとなれば、確かに不安です。彼らはイエスがお語りになる言葉も、この現実の問題と結びつけて聞いてしまいます。イエスが「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に気をつけなさい」と言われた時、弟子たちは「これは私たちがパンを持ってこなかったことを叱っておられるのだ」と、そう理解してしまいます。
しかし、イエスの言葉は、物理的なパンの話ではありませんでした。イエスは、弟子たちのその誤解を指摘し、もっと大事なことを語ろうとしておられました。
ここで登場する「ファリサイ派」と「サドカイ派」は、前回取り上げた個所にも登場しました。この二つの宗派は異なる考えを持つ宗派でしたが、キリストの教えに反対するという点では共通するものがありました。というのも、イエスの行動や語る真理が、自分たちの権威や地位を脅かすものと受け止めていたからです。
前回の場面では、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めた人たちでした。
ですから、イエスが「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に気をつけよ」と言われたとき、それは彼らの持つ見えない影響力、つまり、心にじわじわと入り込み、信仰を腐らせてしまうような教えや態度に注意せよ、という警告でした。
「パン種」は、小さなものでありながら、時間とともに全体を変えてしまう力を持っています。それと同じように、ファリサイ派やサドカイ派の教えも、最初は些細なことのように見えても、やがて心全体を支配し、神との関係をねじ曲げてしまう危険がありました。
マルコによる福音書では、イエスは「ヘロデのパン種にも気をつけよ」と言われています(マルコ8:15)。つまり、政治的な権力や、人を支配しようとする力も、同じように人の心を神から引き離すものとなりうるのです。
パン種は目に見えにくい。しかし、見えないからこそ、知らないうちに取り込まれ、気づいたときには信仰が変質してしまいます。だからこそ、イエス・キリストは弟子たちに注意を促されました。
イエスは誤解する弟子たちに、こう問いかけます。
「まだ分からないのか。あの五つのパンで五千人を、七つのパンで四千人を養った時のことを忘れてしまったのか」
イエスは、彼らの心が鈍くなっていることを嘆きます。すでに奇跡を目の当たりにしていながら、それが何を意味しているのかを悟れなかった弟子たち。その心の鈍さは、今日を生きる私たちにも通じるものがあります。
私たちは目に見える問題に心を奪われがちです。食べ物、生活の心配、社会の動向……。けれども、見えないところで私たちの信仰をむしばむものに対しては、あまりにも無防備です。
では、現代の私たちにとって、「ファリサイ派とサドカイ派のパン種」とは何でしょうか。
それは、「形だけの信仰」かもしれません。礼拝に出席している、聖書を読んでいる、祈っている。でもそれが習慣だけになっていて、心が神に向かっていないなら、それはパン種のように信仰を腐らせるものです。
また、「自分の力で救われようとする思い」もそうです。自分の善行や努力で神に受け入れられようとする考えは、イエス・キリストの十字架による救いを無力なものにしてしまいます。
さらに言えば、「神の言葉よりも人の言葉を優先する心」も危険です。世の中の価値観や文化が、「これは正しい」「これが幸せだ」と語るとき、私たちはそれに流されやすいものです。けれども、それらは時に、神の真理と反することがあります。
私たちはどうすれば、そうした「見えないパン種」に気づき、それを避けることができるのでしょうか。
その答えは、イエスが繰り返し語られたように、「神の言葉に立ち返ること」です。私たちの基準は、世の価値観でも、人々の習慣でもありません。神の御言葉が、唯一の真理です。聖書を読み、その意味を深く味わい、自分の考え方や生き方がそれに照らしてどうかを吟味すること、それが、パン種を見抜く力を与えてくれます。
また、祈りの中で神と心を通わせることも大切です。見えないパン種は、見えない存在である神の助けによってしか見抜けないことが多いのです。
パン種とは、ほんのわずかなものです。それがあるかないかで、パンの姿は大きく変わります。それと同じように、信仰の中に混ざるほんの少しの誤った教えや、自己中心的な思い、世の価値観は、全体を大きく変えてしまいます。
イエス・キリストは、私たちが知らないうちにそうしたものに影響されないようにと、今日も警告してくださっています。「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に気をつけよ」。それは単なる当時の警告ではなく、今を生きる私たちへの言葉でもあります。
見えないからこそ気をつけなければならない。静かに、しかし確実に心に入り込む「パン種」に注意を払い、常に主の言葉に立ち返りながら、純粋な信仰を保っていきましょう。