山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:諦めない信仰(マタイによる福音書15:21-28)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
母の愛という言葉をよく耳にします。一般論かもしれませんが、自分の子供に対する愛情は、父親よりも母親の方が強いように思います。その説明として、母親は自分のお腹を痛めて産んだ子供だから、とよく言われます。
また、脳の構造からも、男性より女性の方が子供の小さな変化にも気が付きやすいと言われています。父親であるわたしから見ても、その点では母親の方が優れていると感じます。
そして、子供のこととなると、なりふり構わず一生懸命になれるのも母の強さであるように思います。
きょう取り上げる聖書の個所に登場する一人の人物も、正に娘を救いたい一心で、自分の恥も誇りも捨てて行動を起こす母親でした。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書15章21節~28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
きょうの話の舞台となるのは、ティルスとシドン地方です。当時のユダヤの北に広がる、異邦人の地です。ユダヤ人たちにとっては、異邦人が住むこの土地は「けがれた地」でした。その場所に、イエスは弟子たちと共に行かれます。そしてそこで、ある一人の女性と出会います。
この女性は「カナンの女」と呼ばれています。「カナン人」とは、旧約聖書の時代から神の民イスラエルに敵対してきた民族です。その歴史的背景を考えれば、ユダヤ人たちがこの女性を「けがれた者」と見ていたことは想像に難くありません。しかも彼女は女性です。当時の社会では、公の場で男の教師に話しかけることすら許されない立場でした。
そのような立場の彼女が、声を張り上げてイエスに叫びます。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。
この叫びの中に、悪霊に苦しむ娘を抱える母親の、どこにも出口のない苦しみがあらわれています。同時に、ユダヤ人の救い主であるイエス・キリストに、娘を救える力があると信じて、そこに希望を見出そうとする思いが表れています。
ところが、イエスはこの訴えに「何もお答えにならなかった」と聖書は記しています(23節)。これは驚くべき対応です。通常、イエスは求める者に対してすぐに応答されることが多いのに、この時ばかりは沈黙を守られました。その沈黙の中に、彼女は試されていました。
弟子たちも冷たく言います。「この女を追い払ってください。叫びながらついてきます」。
彼女は二重の壁に直面します。一つは民族的な壁でユダヤ人と異邦人という深い溝です。もう一つは宗教的な壁です。ユダヤ教の教えでは、異邦人は神の恵みの対象外でした。
ついにイエスは口を開きます。しかしその言葉は、さらに彼女を試すものでした。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。つまり、今はユダヤ人の救いのために来ており、異邦人のあなたの問題に関わるつもりはない、とおっしゃっているのです。
しかし彼女は、「主よ、どうかお助けください」と言って、ひれ伏して食い下がります。
イエスはさらに衝撃的な言葉を投げかけます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
当時、ユダヤ人たちは異邦人を軽蔑して「犬」と呼ぶことがありました。イエスがこの言葉を口にされたとき、彼女はその侮辱の重みを十分に理解していたはずです。
しかし、ここで彼女の信仰が光ります。彼女は言い返すのではなく、むしろその言葉を受け入れたうえで、こう答えます。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」。
彼女は自分が「犬のような存在」であり、神の民の中に入る資格がない者、けがれた存在であることを認めていました。しかし、それでもなお、神の恵みはあふれており、自分にも届くと信じていたのです。
この場面の直前には、ほんとうの清さとは何かが、律法学者やファリサイ派の人々と論議されていました。イエスはそれに対し、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイ15:11) とお答えになりました。つまり、本当の「清さ」とは外見や儀式によって測られるものではなく、心の中にあるものによって決まるというのです。
この流れを受けて見ると、今日のカナンの女性の信仰は、まさに「けがれを自覚し、主の憐れみだけに頼る心」の姿です。彼女は自分が汚れていることを否定しませんでした。むしろ、自らを「犬」に例え、神の恵みに頼るしかない存在として身を低くしたのです。そこにこそ、イエスは真の信仰を見られたのです。
イエスは言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。そして娘は癒されました。
神の恵みは、清く正しい人にだけ与えられるのではありません。むしろ、自分の罪や汚れを認め、神の憐れみにすがる者にこそ、豊かに注がれるのです。
この物語は、私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。
現代の私たちもまた、自分自身の汚れ、弱さ、限界を抱えながら生きています。どれほど努力しても満たされず、どれほど祈っても答えがないように思えるとき、私たちは「自分は神に見捨てられたのではないか」と感じてしまうかもしれません。
このカナンの女のように、自分のけがれを知りながら、それでもなお神にすがる信仰。それこそが、私たちに与えられている「諦めない信仰」なのです。
今、あなたが何に苦しみ、どれほど自分を「ふさわしくない」と感じていたとしても、神の憐れみはあなたにも向けられています。諦めてしまうのではなく、「主よ、助けてください」と祈り求めましょう。