聖書を開こう

小さなものを神にゆだねる(マタイによる福音書14:13-21)

放送日
2025年5月22日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:小さなものを神にゆだねる(マタイによる福音書14:13-21)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「焼け石に水」という諺があります。わずかな努力や援助ではほとんど効果がないときに使います。

 私たちの身近な生活の場面でも「たったこれだけで、何ができるのか」と思ってしまうことがあります。たとえば、災害のニュースを見て、「自分一人の寄付なんて、焼け石に水ではないか」と感じるかもしれません。あるいは、友人の悩みに直面しても、「自分の言葉で何が助けになるのか」と無力感を覚えたことがあるかもしれません。そんな思いを抱くことは、誰にでもあると思います。

 しかし、そんな「わずか」や「小さなもの」に、神は目を留め、用いてくださるのだとしたら、どうでしょうか。きょうの聖書の箇所は、まさにそのようなメッセージを私たちに伝えています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書14章13節~21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の篭いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 きょうの話の出だしは「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」と始まります。「これを聞くと」とは何を指しているのでしょうか。それは、洗礼者ヨハネの死の知らせです。

 前回学んだ通り、洗礼者ヨハネは、時の権力者ヘロデ・アンティパスの不正を指摘したために捕らえられ、ついには殺されてしまいました。

 その知らせを聞いたイエスは、深い悲しみの中で一人静かな場所へと退かれました。それは決してヘロデを恐れてのことではありません。イエス・キリストがしばしば人里離れた寂しい場所へ退かれるのは、祈りのためでもありました(マルコ1:35、ルカ5:16、マタイ14:23)。

 けれども、イエスが人里離れた所へ向かったと知ると、多くの群衆が陸路でイエスのあとを追いかけました。イエスはその人々を見て、再び心を動かされます。マタイによる福音書は「深く憐れみ、その中の病人をいやされた」と記しています。

 このイエス。キリストの姿に、神の愛の深さが現れています。ご自分の悲しみのただ中にあっても、人々の苦しみを見捨てることがない……それがイエスというお方です。

 夕方になり、弟子たちはイエスにこう言います。

 「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 弟子たちの言葉には現実的な配慮があります。場所も時間も条件が悪く、食べ物の準備もありません。常識的に見れば、群衆を帰らせるのが最善の方法です。

 ところが、イエスの答えは意外なものでした。

 「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

 これは弟子たちにとっては無理難題に思えたことでしょう。彼らが持っていたのは、五つのパンと二匹の魚だけでした。ヨハネによる福音書によると、それはある少年が持っていたものだったと記されています(ヨハネ6:9)。

 五千人の男たちに対して、これだけの食料では到底足りません。女性や子どもたちを含めればおそらく一万人を超えるでしょう。弟子たちの目には、「足りない」ものしか見えませんでした。けれどもイエス・キリストは、彼らの手にある「わずか」こそが神の働きの出発点だと言われるのです。

 イエスは群衆に草の上に座るように命じ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りをささげ、パンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。そして弟子たちが群衆に配ります。

 結果はどうだったでしょうか。「すべての人が食べて満腹した」とあります。さらに「残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」とも書かれています。食べ物は余るほどだったのです。イエスの手に委ねられた「わずか」は、満ちあふれる恵みとなって現れました。

 これは単なる奇跡の話ではありません。聖書は、神がどのように私たちの「小さなもの」を用いられるのか、その原則を語っています。

 私たちは時として、自分には何もできないと思ってしまいます。力もない、時間もない、財産も知識もない。あるいは、「信仰すら弱い」と感じることもあるでしょう。

 けれども、神はそういう「小さなもの」を軽んじません。むしろ、それらを通して神はご自身の力を現してくださいます。問題は、私たちがそれを神に委ねるかどうかです。

 パンと魚を持っていた少年が、それを隠してしまっていたら、奇跡は起こらなかったでしょう。弟子たちが「無理だ」と言って何もしなければ、誰も満腹することはなかったかもしれません。しかし、たとえ不十分に見えても、それを神に差し出すとき、そこに神の恵みが満ちていきます。

 聖書が語る神は、完璧な人や偉大な人だけを用いられるわけではありません。むしろ、小さな者、取るに足らないと思われている者を通して、驚くような恵みを表してくださる方なのです。

 たとえば、誰かのために祈ること。ひとこと励ましの言葉をかけること。小さな募金やボランティア。どれも「これだけで何になるのか」と思えるようなことかもしれません。しかし、それらを信仰をもって神に委ねるならば、思いがけない実を結ぶことがあります。

 信仰もまた同じです。「自分は信じる力が弱い」「確信が持てない」という方もいるでしょう。けれども、たとえからし種のような小さな信仰であっても、それを神に差し出すならば、神は必ず応えてくださるのです。

 きょうの聖書個所は、単に食べ物が増えたという話ではありません。それは、神の愛と憐れみが、どれほど豊かであるかを語る物語です。そして、それは今日の私たちにも関係のあるメッセージです。

 手の中にある「わずか」は何でしょうか。時間、労力、思い、祈り、信仰…。それがどんなに小さく見えても、それを神に委ねるとき、神は豊かに用いてくださるのです。

今週のプレゼント ≫番組CD「聖書を開こう」(ヘブライ11:13-12:3)(10名) 【締切】5月28日