山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:真実を語る勇気(マタイによる福音書14:1-12)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「本当のことを言うべきか、それとも黙っていた方がいいか」と悩んだ経験は。誰にでも一度はあると思います。
きょう取り上げようとしている聖書の個所には、まさにそうした葛藤の中で、真実を貫いた一人の人物が登場します。その人物とは、洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネはイエス・キリストが活動を始められる少し前に登場し、荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に説き続け、その言葉に動かされた人々は、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。
ヨハネは、ある時、権力者の大きな罪を厳しく指摘したことで投獄され、そして最終的には命を奪われることになります。洗礼者ヨハネはなぜ命をかけてまで真実を語ったのでしょうか。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書14章1節~12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。
マタイによる福音書14章のこの物語は、イエス・キリストの活動が人々の注目を集める中で、ユダヤの領主ヘロデ・アンティパスの関心が高まったところから始まります。ここに登場する「ヘロデ」は、イエス・キリストがお生まれになった話に登場する「ヘロデ大王」とは別人物で、その息子の一人です。
ヘロデ・アンティパスは、父ヘロデ大王の死後、ローマ帝国の許可を得てガリラヤとペレア地方の領主として統治していました。
このヘロデ・アンティパスの大きな問題行動の一つが、自分の兄弟ヘロデ・フィリポの妻ヘロディアと結婚したことでした。兄弟の妻を妻とすることは、ユダヤの律法(レビ記18:16など)に明らかに違反していました。この罪を厳しく非難したのが、洗礼者ヨハネです。
ヨハネは、神の言葉を預かる預言者として、たとえ相手が権力者であっても、神の正義を語ることを恐れませんでした。その結果、ヨハネは捕らえられて牢に入れられてしまいます。
ところが、ヘロデ自身はヨハネを恐れ、敬意を抱いていたとも伝えられています(マルコ6:20参照)。しかし、ヨハネの命を奪う決定打となったのは、ヘロディアの策略でした。彼女は、自分の行いを非難するヨハネを憎んでおり、機会を狙っていました。
ヘロデの誕生日の宴で、ヘロディアの娘サロメが踊りを披露します。彼女の踊りはヘロデを大いに喜ばせ、ヘロデは軽率にも「願うものは何でもやろう」と誓ってしまいます。母に唆された娘は、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と要求し、ヘロデは人々の前で誓った手前、しぶしぶその願いを聞き入れることになります。
この一連の出来事は、宗教的・道徳的真理が、政治的権力や個人の欲望によっていかにねじ曲げられてしまうかを如実に示しています。そしてその中で、真理を語った一人の男の命が失われてしまいます。
洗礼者ヨハネの姿には、一貫して変わらない特徴があります。それは、「神の御前に正しいことを語る」という使命に忠実であったことです。
ヨハネの言葉は常に鋭く、妥協がありませんでした。人々に「悔い改めなさい」と語るだけでなく、宗教指導者であるファリサイ派やサドカイ派にも、「まむしの子らよ」と厳しく語ります(マタイ3:7)。ヨハネにとって、真実を語ることは、自分の立場や命を守ることよりも大切な使命だったからです。
私たちはここに、現代でも通じる大切な姿勢を見ることができます。社会の中で「これはおかしい」と思うことを目の前にしたとき、私たちはどれほどその声を上げる勇気があるでしょうか。沈黙が正義ではないと分かっていても、波風を立てたくない、自分が不利になりたくないという思いから、見て見ぬふりをしてしまうことがあります。
もちろん、私たちが何でもかんでも声を荒げて批判する必要がある、というわけではありません。大切なのは、自分の思いを押しつけるのではなく、神の御前において真実に生きようとする誠実さを持ち続けることです。
ヨハネは単なる告発者ではなく、神の前に立つ「預言者」でした。預言者とは、神の御心を告げる人です。真実を語るとは、神の思いを正しく伝えることです。洗礼者ヨハネは、その使命に最後まで忠実であり続けました。
それでは、この物語は現代の私たちに何を語りかけているのでしょうか。
まず問われているのは、「私たちは何に従って生きているのか」ということです。洗礼者ヨハネは、どんな代償を払っても神の御言葉に従って生きることを選びました。一方でヘロデは、神の言葉の正しさをどこかで感じつつも、世間の目や自分の立場を守ることを優先し、結果として大切な人の命を奪ってしまいました。
私たちは、日々の暮らしの中で、小さな選択を積み重ねながら生きています。職場や家庭、地域社会の中で、誰かに真実を伝えるべき時、あるいは沈黙を破るべき時があるかもしれません。そのとき、私たちは何を基準に判断するでしょうか。人の顔色でしょうか? それとも神の御心でしょうか。
「真実を語る勇気」とは、自己主張の強さではありません。それは、「自分の命を支配しているのは神である」という信仰に立った生き方です。神の御前に正しくありたいと願うとき、私たちは初めて、誠実に生きる勇気を持つことができます。
もちろん、ヨハネのように命をかける状況に立たされることは、私たちの生活の中ではそう多くないかもしれません。しかし、真実を語ることに痛みや犠牲が伴うのは、今も昔も変わらない現実です。
洗礼者ヨハネの生き様は、現代に生きる私たちに、静かにしかし力強く問いかけます。「あなたは、誰に従って生きているのか」と。
私たちは、誰かに気に入られようとして、自分を偽ってしまうことがあります。あるいは、何が正しいか分かっていながら、その場の空気に流されてしまうこともあります。そんな私たちにこそ、神は語りかけておられます。
「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」
真実を語る勇気は、一人で背負うものではありません。私たちの後ろには、私たちを支える神の御手があるのです。