聖書を開こう

心の重荷を降ろして(マタイ11:25-30)

放送日
2025年 2月 6日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:心の重荷を降ろして(マタイ11:25-30)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 忙しい毎日、尽きることのない仕事や家事に追われて、それをこなしていかなければならないプレッシャーに押しつぶされそうになってしまった経験はありませんか。今まさにそのさ中にいるという人もいるかもしれません。

 あるいは、これと言ってこなさなければならないことがあるわけでもないのに、思いがフル回転してしまって、心が疲れ切ってしまう人もいるかもしれません。

 そんなとき、どこかで「休みたい」「肩の荷を下ろしたい」と思うのは、誰しも共通の願いだと思います。きょう取り上げようとしている聖書の言葉は、まさにそんな私たちに向けられたイエス・キリストの招きの言葉です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書11章25節~30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 先週学んだ箇所には、福音を耳にしながらも、悔い改めて信じようとしない町々への厳しい言葉が記されていました。しかし、福音を耳にした人たちが、皆、それらの町のように心を閉ざしたわけではありませんでした。

 同じ福音の言葉を耳にしながらも、ある人はそれを拒絶し、ある人は悔い改めて素直に受け入れる現実がありました。それはわたしたち人間委は不思議に感じられます。

 神の律法を熱心に学んで来たはずのファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス・キリストを拒み、人々からは罪人扱いされ、神の国からは遠いと思われてきた人たちが、かえって素直にキリストに従いるのはどうしてでしょう。

 イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」

 天の父が福音の真理を知恵ある者や賢い者からお隠しになったと聞くと、なんだか悪意のある神のように聞こえてしまいます。

 そもそもここで言われている「知恵ある者」や「賢い者」とはどういう人たちなのでしょう。それは自分自身を「知恵ある者」や「賢い者」と自負している人たちです。このことは罪人の最大の特徴でもあります。

 最初に禁断の木の実を食べたエバは、神のように賢くなれるとそそのかされて、それを食べてしまいました(創世記3:4-6)。罪人の特徴は、実際には神と等しくなることなどできないはずなのに、そうなりたいと思い、それに限りなく近づいたと思い込んでいる人たちです。言い換えれば、神からこれ以上何も学ぶ必要を感じていない人たちです。そういう意味で、彼らには福音の真理が隠されていると言えるのです。

 それに対して神は「幼子のような者」に福音の真理をお示しになったと言われています。幼子のような者とは、神に頼り、謙虚に従おうとする人のことです。イエスの招きは、そうした素直な心を持つ人々に向けられています。

 しかし、聖書はすべての人は罪人である教えているのですから、そのうちのある者たちが「幼子のような者」になったのは依然として不思議です。ただ聖書が教えていることは、誰も聖霊の働きによらなければ、福音を受け入れることはできないということです。それ以上の説明はできません。

 では、人をそのように二分する神は、悪意のある神なのでしょうか。そうではありません。はっきりと言えることは、誰も自分の意思に反して、福音に耳を傾けることができなくなったわけではありません、もし、自分の意に反して福音の真理が自分から隠されていると主張する人がいるならば、その人に必要なことは、謙虚な姿勢で福音に耳を傾けることです。

 イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者」をご自身のもとへと招かれます。当時の人々にとって、律法学者やファリサイ派の人々が理解していたような仕方で律法を厳格に守ることは大きな重荷でした。宗教指導者たちは細かい規則を設け、人々を縛っていたからです。

 イエス・キリストがお招きにった「疲れた者、重荷を負う者」とは、当時の宗教的な指導者が民衆に課していた律法の重荷に疲れ、そこからの解放を福音に求める人々でした。私たちの時代にあっては、その疲れや重荷が何であれ、人間が作ったしきたりや制度や宗教に、真の安らぎを見出すことができない人をイエス・キリストは今もなおお招きになっておられます。イエス・キリストはそのような人々から重荷を取り除き、真の自由と安らぎを与える救い主として来られたからです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 しかし、そうおっしゃるイエス・キリストはこうもおっしゃいました。

 「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」

 「軛(くびき)」とは、本来、牛や馬が荷を引くためにつける道具です。イメージからすれば、重たい労働のイメージです。しかし、あえて「軛」のイメージを用いているのには、理由がありました。それは、イエス・キリストが約束している重荷からの解放は、はき違えた自由を人間に約束するためではないからです。

 人間は神から解放されるときに自由になるのではありません。罪と軛を共にしていた人間が、神と軛を共にして歩むときにこそ、安らぎが与えられるからです。

 イエス・キリストは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とおっしゃっています。ここでは「軛」は弟子としての学びの比喩でもあります。イエスの軛を負うとは、イエスの教えを学び、共に歩むことを意味します。

 イエス・キリストはご自分を「柔和で謙遜な者」とおっしゃいますが、それは正に刺々しくて高慢な罪人と対照的な姿です。そのイエス・キリストから学び、共に歩むことで、私たち自身が変えられていき、安らぎを与えられていきます。

 現代に生きる私たちも、多くの重荷を抱えています。仕事や家庭の悩み、人間関係のストレス、将来への不安…。そうした中で、イエス・キリストは「わたしのもとに来なさい」と優しく招かれています。イエス・キリストに信頼し、このお方から学んで共に歩むとき、私たちも魂の安らぎを得ることができます。それは単なる肉体的な休息ではありません。私たちの心と魂が神の愛によって満たされて得る安らぎです。

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