12月7日(日) マタイ3章1-12節
「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』マタイによる福音書3章9節
洗礼者ヨハネは、荒れ野で来るべきメシアに先がけて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人びとに呼びかけました。しかし、ファリサイ派やサドカイ派に対しては「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」と述べて、洗礼を授けることを拒んだのです。彼らは、アブラハムの子孫である自分たちは、今のままで救われると考えていました。ヨハネはその彼らの高慢な心を見抜いて、洗礼を授けることを拒んだのです。
ヨハネは「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言いました。「石」という言葉は聖書の中では「命のない者、死んだ者」というイメージで用いられることがあります。しかし、神は、その死んだ石ころのような者を「アブラハムの子」に造り変えることができるお方なのです。
やがて現れた主イエスこそ、石ころに過ぎない罪人をアブラハムの子に変えるために世に来られた救い主です。主イエスは、きょうも「あなたの罪はわたしが十字架で贖った。だから、悔い改めてわたしと共に新しい命を生きなさい」と呼び掛けておられます。この主の呼ぶ声に答えて、このお方を自分の人生にお迎えすることこそ、私たちが結ぶ「悔い改めにふさわしい実」なのです。
【祈り】
主よ、石ころに過ぎない私たちを、アブラハムの子としてくださる愛と憐れみに感謝いたします。








