大宮季三(横浜中央教会牧師)
メッセージ:罪は「包む」
おはようございます。横浜中央教会の大宮季三です。
さて、日本語の「罪」という言葉の由来をご存知でしょうか。諸説あるようですが、日本語の「罪」という言葉は、「包み・包む」という言葉から来ているそうです。「包み隠す」、「覆い隠す」ようなもの。「表沙汰にしたくない」という意味からきているそうです。この日本語の「罪」という言葉の由来も、聖書の内容に即しているなぁと思うことがよくあります。
創世記では、最初の人間アダムとエバが、神様に「食べてはいけない」と言われた木の実を口にした瞬間、いちじくの葉で腰を覆いました(創世記3:7参照)。裸のままでは神の前に立てない、と悟ったからです。また、アダムとエバの子どもである長男カインは、弟アベルを殺害し、神に「弟はどこにいるか」と問われても、「知りません」と嘘をつきました(創世記4:9参照)。人は、罪を犯すと、本能的に包み隠そうとする。これが、私たちの姿です。
しかし神様は、「隠しておきなさい」とは言われません。家出をした子どもを待つように、「そこから帰って来なさい」と招かれます。包みをほどけば、恥や痛みが明らかになりますが、神はそこに、手を差し伸べる方です。十字架のイエス・キリストは、私たちが負いきれない罪を身代わりに背負い、赦しの道を開きました。その愛によって、もう葉っぱで身を固める必要はありません。
誰にも知られたくない傷や痛みを抱えているなら、思い切って、神に差し出してみてください。その包みを解く先に、本当の自由と安らぎが待っています。
「わたしは彼を憐れまずにはいられないと 主は言われる。」エレミヤ書31章20節