山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:見えないものを信じる
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
何かを信じるためには、それを自分の目で見たり、確かめたりすることが必要だと感じるかもしれません。しかし私たちは、日常の中で、実は、多くの目に見えないものを信じながら生きています。
例えば、家族や友人の愛。愛そのものは、目には見えませんが、相手の言葉や行動を通して、その存在を感じることができます。また、明日の天気予報を信じたり、初めて訪れる場所へ口コミ情報を頼りに出かけたりすることもあります。
けれども、信じることは、時に難しいものです。特に、自分にとって大切なことであればあるほど、本当にそれを信じてよいのか、と疑いたくなることがあります。むしろ、疑うことこそが、真実を求める心の表れだとも言えます。
聖書の中にも、そんな疑う人が登場します。イエス・キリストの弟子の一人、トマスがその人です。十字架の上で命を落とされたイエス・キリストに、弟子たちは、大きなショックを受けました。しかし、そんな彼らのもとに、よみがえられたイエスが現れ、「平和があるように」(ヨハネ20:19)と語りかけました。
ところが、その場にトマスは居合わせませんでした。後から仲間たちが、「わたしたちは主を見た」(ヨハネ20:25)と伝えても、トマスはすぐには信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)。この言葉には、疑いと同時に、誠実さがにじんでいます。トマスは、単に、疑っているのではなく、本当に確かなものを求めていました。
それから八日後、イエスは再び弟子たちの前に現れ、トマスにこう言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)トマスは驚きました。そして、イエスに向かって、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と叫びました。
ここで注目したいのは、イエス・キリストがトマスの疑いを否定しなかったことです。むしろ、トマスが、自分の心の中にある疑問と向き合うことを許し、そこから信じることへと導かれました。
このトマスの姿は、私たちにも重なる部分があります。私たちは時に、「本当に神は存在するのか」と考えます。そうした疑問を持つこと自体は、決して悪いことではありません。それは、信仰の入り口でもあるからです。しかし、トマスは、ただ疑っていただけではありませんでした。彼は求め、問い続けました。そして、復活のキリストと出会った時、信じることの先にある世界を知りました。
イエス・キリストは最後に、こうお語りになりました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)。これは、何も考えずに信じるべきだ、という意味ではありません。むしろ、目に見えなくても、確かに存在するものがある、ということに、心を開くように、というメッセージです。
私たちの人生の中には、確証を持てないことがたくさんあります。愛、希望、未来への期待…それらは目に見えません。しかし、それらを信じることで、私たちは前に進むことができます。
キリストが復活された日は、絶望の中にあった弟子たちが、新しい希望を見いだした日です。もしあなたが今、不安や疑問の中にいるなら、「信じることができる何か」を求めてみてください。その先に、あなたを変える出会いが待っているのです。
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