キリストへの時間

わたしのところへ来なさい

放送日
2024年1月14日(日)
お話し
石川亮(芸陽教会牧師)

石川亮(芸陽教会牧師)

メッセージ: わたしのところへ来なさい

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。高知県安芸市本町二丁目、森澤病院裏手にある芸陽教会牧師、石川亮です。
 今週もまた、ラジオをお聞きくださるあなたと共に、聖書の言葉の恵みにあずかれますことを嬉しく思います。

 先週は、私が信仰を持つきっかけとなった話をいたしました。その話をもう少し続けます。祖母の葬儀が終わった後、私は、妻に連れられて日本キリスト改革派横浜教会へ通うようになりました。先週のお話の中でも少し触れましたが、当時の私は、心の病を抱えていたために、常に体と心が疲れ切っていました。そのような状態から、仕事に就くこともできませんでした。仕事に就くことができず、いつも、自分が情けないとか、精神的に弱いと、自分を責めていました。そんな思いを持ちつつ、毎週、遅刻をしながらも礼拝に出席しました。後ろの方の席で、また心の調子が悪い時は、説教の音声が入る小さな部屋で、礼拝を守りました。

 教会へ通うようなり一年を少し過ぎたころに、私は洗礼を受けました。その頃には、心の病はほとんど回復していました。洗礼を受けて間もないころ、教会の外の掃除をしていると、教会の看板が目に留まりました。そこは、マタイによる福音書11章28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という聖書の言葉が書かれていました。

 イエス様が言われる「疲れた者、重荷を負う者」とは、旧約聖書の掟や戒めを守ろうとして、心に疲れを覚えるほど、それが負担となっている人のことです。本来、そのような掟や戒めは、神と人を愛するためのものでした。しかし、律法学者やファリサイ派の人によって、掟や戒めが耐えきれないほどの重荷へと変えられてしまいました。また、イエス様は、「休ませる」と言いますが、それは何もしなくなる、ということではありません。なぜならイエス様は、旧約聖書の掟や戒めを廃止するのではなく、成就するために来られたからです。それを示すように、28節に続く30節で、イエス様は、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言います。

 なぜ、主イエスの軛は負いやすく、荷は軽いのでしょうか。それは、イエス様が、その人の人生と共に、軛と荷を負ってくださるからです。イエス様のもとに来る人は、それまで抱えていた重荷を、主が共に担ってくださる。この世を生きる時、人は何らかの重荷を背負うことがあります。重荷なんて無くなってほしい、そう思います。ですが残念ながら、生きるとは、何らかの重荷を負うことでもあります。それは、主イエスを信じたとしても同じです。主イエスを信じたとしても、新たに荷を負うことさえあります。

 しかし、それを1人で負うのと2人で負うのとは、その重みはまったく違います。ましてやそれを、主イエスが共に背負ってくださるなら、体にかかる重さだけでなく、心にかかる重さをも軽くしてくださいます。そればかりか、主イエスのもとでなら、休息をも与えてくださるのです。そして、主イエスは、誰でもわたしのところに来なさいと招いてくださいます。

 誰でも、イエス様のもとに行っていいのです。地位や国籍、人種など、全く関係ありません。誰でも、主イエスのもとに行って、主イエスを受け入れるなら、主イエスはその人が背負う重荷を共に背負い、荷物の重さを軽くし、休息を与えてくださいます。私たちは弱いので、主イエスを信じていたとしても、日々の忙しさに負け、時に、自分一人で重荷を背負っていると思ってしまうことがあります。そんな私たちの思いを、再び主イエスに向けることができるのが、礼拝なのです。

 主イエスは、ラジオを聞くあなたをご自身のもとに招いておられます。その招きに応じて、主イエスのもとへ来て、重荷を下ろし、休んでいただきたいと願います。

※ホームページでは音楽著作権の関係上、一部をカットして放送しています。

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