神の御心に適った悲しみ | コリントの信徒への手紙二 7章

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コリントの信徒への手紙二 7章

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 コリントの信徒への手紙二 7章10節

神の御心に適った悲しみ

あらゆる悲しみをマイナス価値とする考えは、聖書の信仰からは遠いものです。悲しみの中にも、神の御心に適った悲しみがあります。それは悔い改めにともなう悲しみです。

ルカによる福音書15章に「放蕩息子」のたとえがあります。父のもとを離れた息子が「我に返っ」たとき(17節)、彼の心は父に背いた罪に責められ、激しく痛んだにちがいありません。しかし、その悲しみや痛みがどれほど大きく、強いものであっても、それが悔い改めに結びつく、神の御心に適うものであるなら、それは幸いなる痛みであり、悲しみです。やがては神の赦しと命にあずかる、真の喜びと祝福に至る痛みであり、悲しみです。

それに対して「世の悲しみ」はついに神と結ばれることのない悲しみであるゆえに「死をもたらします」。

悔い改めとはきびすを返して、神の側に方向転換をすることです。そこに大いなる恵みが備えられています。コリント教会の信徒たちは偽使徒たちに迷わされてパウロが使徒であることを否定し、パウロを教会から締め出そうとしました。しかし、パウロが涙ながらにしたためたこの手紙により、悔い改めに導かれたのです。10節の言葉を、パウロは大きな喜びに満たされつつ語るのです。

【祈り】

私たちを悔い改めに導き、私たちの悲しみを喜びに変えてくださるあなたの恵みに感謝いたします。

木下 裕也(岐阜加納教会)