何をもって社会正義とするか | 箴言 1章

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箴言 1章

諭しを受け入れて、正義と裁きと公平に目覚めるため。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 箴言 1章3節

何をもって社会正義とするか

 特定の団体と無関係であることが、社会正義であるかのように語られます。その団体を反社会的と見るからです。公正な判断基準が定まらない場合、社会は混迷を深めます。何をもって社会正義とするか。これを見極めることが必要です。

 政治的な主権者である国民は、日本国憲法に則り、基本的人権の尊重を国家に義務付けます。これが社会正義の共通基盤です。同時に、キリストを主権者とする神の国の民は、信仰と生活の唯一の規準である聖書に聴き従い、義の規範を遵守します。これこそクリスチャンの義務、愛と自由のディアコニアです。

 人対人の横関係の正義と、神対人の縦関係の義を、聖書は区別せず、ツァディークと表記して、世界秩序を表現します。世界秩序としての義は、知恵と結びつきます。神の側からすれば、それは創造の計画と秩序を意味し、人の側からすれば、その秩序の認識と受容を意味します。義の創始者は神であり、創造主はまさに正しい方です。クリスチャンは、主なる神の義をもって社会正義とします。

 「箴言。これは知恵と諭しを知り、分別ある言葉を見極めるため。見識ある諭しと、正義と公正と公平を受け入れるため」(1章1~3節、聖書協会共同訳)。

 【祈り】 義の太陽として来臨された主よ、神を愛し、隣人を愛せよとの仰せに、喜んで従う僕と成らせたまえ。

二宮 創(太田伝道所)