見ないで信じる幸い | ヨハネによる福音書 20章

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ヨハネによる福音書 20章

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ヨハネによる福音書 20章29節

見ないで信じる幸い

復活された主イエスはトマスに最後に言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と。主イエスは、「あなたは、本当は見ないで信じるべきだった」と、トマスの不信仰を責めておられるのでしょうか。そうではありません。実は他の弟子たちもみんな見るまでは信じませんでした。彼らは「わたしたちは主を見た」と証言しています。ヨハネ福音書そのものが、主イエスを見て信じた人たちの証しとして記されているのです。

ヨハネ福音書は、主イエスを見て信じた人たちの証しを聞いて、主イエスを信じる人たちのことを知っています。彼らは主イエスを見ていません。その人たちは、主イエスを見た人たちの証しを聞くことによって、主イエスをこの肉の目で見ることなく、信じます。主は十字架の死の前に、「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と祈っておられます(17章20節)。

ここで御言葉を聞いて信じる人たちとは誰でしょうか。それは教会に生きる人たち、私たちのことです。私たちは証しの言葉である聖書、礼拝で御言葉の説教を聞いて信じています。それは本当に幸いなことなのです。この幸いを生きましょう。

【祈り】

神よ。御言葉を聞いて、主イエスを信じて歩む幸いを生き続けることができますように。

橋谷 英徳(関キリスト教会)