聖なる公同の教会 | エフェソの信徒への手紙 5章21-33節

RCJメディアミニストリー「ふくいんのなみ」のトップページへ戻る

エフェソの信徒への手紙 5章21-33節

キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 エフェソの信徒への手紙 5章26節~27節

聖なる公同の教会

聖霊は教会を生み出しました。聖書は教会を神の民、キリストの体などさまざまな言葉で表現していますが、それらを踏まえて使徒信条は「聖なる公同の教会」を信じると告白します。「聖なる」とは神によってこの世から召し出されたということであり、「公同の」とは共通の信仰による普遍的な存在ということです。

歴史を貫き、世界中に広がる見えない教会というものがあります。天地創造の前からキリストにおいて選ばれていた人たちの集まりです。ですから、旧約時代のイスラエルの民も教会の一員と言うことができます。そして、選ばれた民はそれぞれの時代と場所において見える教会として現れます。今日でも多くの教派があり、また同じ教派の中にもさまざまな個性を持った教会がありますが、そのすべてが聖なる公同の教会に連なっているのです。

私たちは、父、子、聖霊の御名によって洗礼を受けて見える教会の一員となります。地上の教会には多くの欠けもあります。しかし、そこで営まれる信仰生活は聖なる公同の教会の中で守られているのです。

石原 知弘(東京恩寵教会)