神の子としての希望に生きる | ローマの信徒への手紙 8章18-25節

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ローマの信徒への手紙 8章18-25節

被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ローマの信徒への手紙 8章23節

神の子としての希望に生きる

神の子とされる希望。実に驚くべき恵みです。キリスト者は神の切なる招きによってすでに神の子です。その恵みは、長子キリストに似ること、虚無からの解放、人生の意味の発見、罪と死の怖れからの自由、終末の完成への確かな約束などを含みます。

他方で、神の子としての希望は、まだ道半ばです。苦しみと試練に喘ぎ、不慮の災難には慌てふためきます。家族や教会の困窮に不安をいだき、時には神の子とされている恵みさえ忘れ、失意の日々を過ごすこともまれではありません。

神の子としての完成は、「体の贖われること」を含みます。使徒信条が「体のよみがえり」を告白するとおりです。体をもつゆえの喜びがあり、体ゆえのうめきがあります。けれども救いの完成の日には、弱さに泣いた体が強められ、新たにされ、神からの誉れに包まれます。

その希望の手付けが「“霊”の初穂」です。豊かな収穫の約束である初穂。ここに希望の遠近法があります。うめきながら、やがて来る誉れと完成を仰ぐ霊の遠近法です。さあ、霊の初穂を携え、新年の礼拝に集いましょう。

小野 静雄(瑞浪伝道所・春日井教会)