ぼう然となってもいい | ダニエル書 8章

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ダニエル書 8章

わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。その後、起きて宮廷の務めに戻った。しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ダニエル書 8章27節

ぼう然となってもいい

ドストエフスキーの『罪と罰』の前書きにこんな言葉があります。

「大抵の人がこの小説の、人を圧迫するような力や、重苦しい感銘について語りあった。これらの圧迫と苦しさのために健全な神経をもっている人々でさえ打たれて病気のようになるし、弱い神経をもった人間は、それを読むのを余儀なく中止しなくてはならなくなった」。

この言葉は、ドストエフスキーの言葉ではなく、彼の伝記を書いたストラーホフという人の言葉です。彼の言葉は、次のことを伝えています。本物の言葉、いのちを与える言葉と出会った時の反応は喜びや感激だけではないということです。

8章の結びにはダニエルの告白の言葉が語られています。「疲れ果て」、「病気になって」、「ぼう然となり」、「理解できずにいた」。彼はどうしてこんな風になったのでしょうか。それは神の言葉と出会ったからです。私たちが聖書にある神の言葉と出会う時も感激や喜びをもたらすとは限りません。聖書の言葉も、いや聖書の言葉こそ、そうなのです。聖書はいのちの言葉を私たちに語っています。

橋谷 英徳(関キリスト教会)