マタイによる福音書 26章36-46節
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て…言われた。ペトロおよびゼベダイの子2人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 マタイによる福音書 26章36節~38節
目を覚ましていなさい
小宮山 裕一(網島教会)
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て…言われた。ペトロおよびゼベダイの子2人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 マタイによる福音書 26章36節~38節
小宮山 裕一(網島教会)
2019年4月の聖書日課をまとめて表示します。
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十字架が迫っています。キリストは人としてのあらゆる苦しみを体験されました。キリストは苦しみが大きいときにこそ、懸命にお祈りになりました。
ゲツセマネでキリストはおひとりで祈ります。しかし、その祈りは弟子たちを伴う祈りでした。無力で頼りない弟子たちです。裏切ることがわかっている弟子たちです。しかし、キリストは弟子たちに祈っていなさいと言うのです。祈りは1人で祈るだけでなく、共に祈ることを、キリストは十字架を前にして、弟子たちに示されました。
キリストの祈りは壮絶な祈りです。十字架にかかることは、このお方にとっても怖いことでした。その痛みは救い主として、人びとの罪を背負う痛みでした。壮絶な祈りの体験です。
キリストが苦しまれたとき、弟子たちは疲れて寝てしまいました。キリストの十字架に対して無理解でした。目を覚ましていることのできない弟子たちの姿。この姿を見る時、私たちと無関係とは思えません。しかし、覚えたいのです。寝てしまった弟子たちにキリストのまなざしが確かに注がれていたということを。