交差された手 | 創世記 48章

RCJメディアミニストリー「ふくいんのなみ」のトップページへ戻る

創世記 48章

ヨセフは、父に言った。
「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
ところが、父はそれを拒んで言った。
「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 創世記 48章18節~19節

交差された手

主イエスは十字架の死がご自身の使命であり、預言者が語ったとおり必ず実現することをご存じでした。時が近付くと、主は弟子たちにあらかじめ知らせましたが、弟子たちには理解力がなく、もだえる主イエスと共に祈るために目を覚ましている力すらありませんでした。

老齢のヤコブは病み、今は死を前にしています。ヨセフは、父ヤコブの病の知らせを聞き、二人の息子、マナセとエフライムを連れて、見舞いに行きます。ヤコブは見えなくなった目で、その孫たちを抱き、祝福します。

そこで不思議なことをヤコブはします。ヤコブの手は、左右に交差されたのです。ヤコブの祝福の右手は左側にいた弟のエフライムに、左手は右側にいたマナセに伸ばされます。通常は逆のはずでした。父のヨセフにとってもこのことは意外なことであったようです。ヨセフは、右手を長男の方に置き換えようとしますが、ヤコブはそれを拒み、「わたしには分かっている」と言います。

このことは何を意味するのでしょうか。この交差された手の背後に神がおられます。神の思いは人の思いと異なります。このことは創世記で繰り返されてきました。カインとアベル、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ…。主イエスも言われました。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタ20章16節)と。私たちも人の思いを超える神の恵みによって選ばれ、救われています。

橋谷 英徳(関キリスト教会)