撃たれて、いやされて | イザヤ書 19章

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イザヤ書 19章

主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 イザヤ書 19章22節

撃たれて、いやされて

私たちは、神にいやされなければ、生きていけない存在です。それだけ深く傷つき、痛みを負っているからです。それは、何よりも罪によってもたらされたものです。

神はその罪を撃たれます。もし神が私たちの罪を見過ごしたままでおられたならば、私たちは、痛みを感じずに済んだかもしれません。しかし、そこには想像を越えた悲惨な人生が待ち構えていたことでしょう。

だから、ここで神は罪の虜になっていたエジプトの民を必ず撃つと語られます。神は、罪を放っておかれるのではなく、私たちを撃ち、大切なことに気付いてほしいと願っておられます。撃たれるということは、大きなダメージを負うことを意味します。また、存在そのものが打ち砕かれるということが、そこで起こるのではないでしょうか。

しかし、そこでこそ神に立ち帰る道が見えてきます。神は撃つだけのお方ではありません。神の激しい怒りの中で、どうすることもできない者、心に傷を負い、痛みを負ったままでいる者をいやし、赦してくださるお方なのです。私たちはこの方に信頼し、痛みを乗り越えてゆきます。

藤井 真(千里山教会)