聖書を開こう

善と悪がないまぜの世界(マタイによる福音書13:24-30,36-43)

放送日
2025年4月17日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:善と悪がないまぜの世界


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「正直者が馬鹿を見る」という言葉があります。そんなことは認めたくはありませんが、しかし、実際には偽り者がいい思いをしたり、必ずしも正義が悪を駆逐したりするとは限りません。そんな理不尽さを感じたことが、誰しも一度や二度はあるのではないでしょうか。

 なぜ、神が正しいお方であるなら、この世界から悪を一掃してくださらないのでしょうか。きょう取り上げようとしている個所にはそんな疑問に光を当てています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書13章24節~30節、36節~43節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 きょうの個所は、「毒麦のたとえ」として知られる話です。現代の私たちには少し馴染みの薄い農業の話ですが、イエス・キリストの時代、イスラエルは農業社会でした。そこで語られたたとえ話は、当時の人々にとっては日常的で身近なものでした。

 まず、イエス・キリストはこうおっしゃいました。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。」(マタイ13:24)

 ところが、皆が眠っている間に敵がやってきて、麦の中に毒麦を蒔いていったというのです。やがて麦が芽を出し、実を結ぶようになったとき、毒麦も現れてきました。

 この「毒麦」と訳されている植物は、ギリシア語では「ジザニオン」と呼ばれます。これは麦に非常によく似た雑草で、成長途中では麦と区別がつきにくく、根が絡み合ってしまうため、途中で抜こうとすると麦まで一緒に抜けてしまうことがあります。収穫の時期になるとようやく判別できるようになります。

 毒麦が生えていることに気づいた僕たちは、すぐにそれを引き抜こうと申し出ます。しかし、主人はそれを止めます。

 このたとえは、神がなぜ今すぐに悪を取り除かないのかという疑問に対する答えでもあります。私たちは悪をすぐに裁いてほしい、悪人はただちに罰を受けるべきだと感じるかもしれません。しかし、神のご計画は私たちの思いとは異なります。

 たとえの中で主人が刈り入れの時まで待つように命じたように、神もまた最後の審判のときまで待っておられるのです。その間、私たちは善と悪が共にある世界に生きていかねばなりません。これは決して神が悪を容認しているのではありません。むしろ神の忍耐と憐れみが働いているからです。

 弟子たちはこのたとえの意味をよく理解できず、イエス・キリストにその解き明かしを求めました。イエスはその問いに答えて、たとえの意味を一つ一つ説明されました。

 「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。」(マタイ13:37-39)

 この解き明かしによって、この話が単なる農業の話ではなく、霊的な真理を語っていることがわかります。世界には神に属する者たちと、悪に従う者たちが共に存在しています。そして今はその両者が共に成長する時なのです。

 しかし、終わりの日は必ず来ます。たとえの中で主人が収穫のときに毒麦を集めて焼き、麦を倉に納めるよう命じたように、世の終わりには神の正しい裁きが行われます。

 イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ13:41-42)

 これは厳しい言葉ですが、同時に正義が最終的に勝利するという希望を与えます。この世では正しい者が報われないこともありますが、神の目は決して曇ってはいません。すべての行いは、神の御前に明らかです。

 とはいえ、このたとえ話が語られる背景には、神の忍耐と愛があります。神は悪をただちに滅ぼすこともおできになりますが、あえてそうされないのは、すべての人が悔い改めて、救われることを望んでおられるからです。

 このたとえ話を通して、私たちに求められているのは「裁くこと」ではなく、「信仰をもって生きること」です。毒麦を抜こうとする僕たちのように、私たちはつい他人の信仰や行いを裁いてしまいがちです。しかし、それは神のなさることです。私たちに求められているのは、自分自身が良い麦として成長していくことです。

 善と悪が混在する世界にあっても、絶望する必要はありません。神はすべてをご覧になっており、必ず最終的な正義を実現されます。それまでの間、私たちは御言葉に根ざし、希望を持って生きることが求められています。

 最後にイエス・キリストはこのたとえ話をこう締めくくられました。

 「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」(マタイ13:43)

 この言葉は、信仰をもって歩む者たちに与えられる希望の約束です。どんなにこの世が混沌としていても、最終的には神の国が実現し、正しい者たちは神の栄光の中で輝くのです。

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