山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:あなたの言葉は心の鏡(マタイ12:33-37)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
言葉の失敗を経験したことは、誰にでもあると思います。ただの言い間違いなら、笑って済ますことができますが、失言となるとそうはいきません。失言してしまったときに、「心にもないことを発言してしまった」と弁解する人を見かけますが、人は心にないことを口にすることはできません。
私たちの日常は言葉に満ちています。家族との会話、職場でのやり取り、SNSでの投稿、何気ない独り言。言葉は私たちの周りに溢れ、私たち自身を形作る大きな要素となっています。けれども、言葉というものは単なる音や文字の集まりではありません。それは、私たちの心を映し出す「鏡」のようなものです。
きょうこれから学ぼうとしている個所には、イエス・キリストが語られた「言葉と心の関係」についての教えが記されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書12二章33節~37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
イエス・キリストは、「木」と「実」という比喩を使って、私たちの心と言葉の関係を説明されています。私たちの口から出る言葉は、まるで木の実のように、私たちの心の状態を表しています。では、イエス・キリストがこの言葉を語られた背景には、どのような出来事があったのでしょう。
この場面は、イエスがファリサイ派の人々と議論をしている最中の出来事です。ファリサイ派は、当時のユダヤの社会で宗教的に非常に厳格な人々でした。彼らはモーセの律法を忠実に守ることを何よりも大切にし、その教えを民衆に説いていました。しかし、彼らの信仰は形式的であり、しばしば愛や正義よりも「外面的な行い」に重点が置かれていました。
この直前の出来事(マタイ12:22-32)では、イエス・キリストが悪霊につかれた一人の人を癒されました。すると、群衆は驚き、「この人はダビデの子(つまり救い主)ではないだろうか」とざわめきました。しかし、ファリサイ派の人々はこれを認めず、イエスは悪霊の頭であるベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだと非難します(マタイ12:24)。
これに対して、イエス・キリストは彼らの偽善と不信仰を鋭く指摘されました。そして、きょうの個所へと続きます。イエス・キリストは、言葉が人の心を映し出すものであることを語られました。
イエス・キリストの言葉をもう一度読みましょう。
「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」(35節)
私たちの心は「倉」にたとえられています。倉である心には、日々の経験や思いが蓄えられていきます。その中に何を入れるかによって、そこから出てくるものも決まります。もし私たちの心の倉に愛や親切、誠実さが蓄えられているなら、私たちの言葉もそのようなものになります。しかし、もしそこに憎しみや不満、偽りが蓄えられているなら、それが言葉となって表れてしまいます。
イエス・キリストは続けて、こう語られます。
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」(36節)
これは非常に厳しい警告です。私たちが何気なく発する言葉にも責任があり、それらが神のみ前で問われることになります。私たちが日頃口にする言葉は、人間だけが聞き手なのではありません。神がその人が語る言葉に耳を傾けておられるのです。
では、この教えは現代を生きる私たちに何を語りかけているでしょうか。
現代社会では、言葉が以前にも増して重要な役割を果たしています。インターネットやSNSを通じて、私たちは簡単に言葉を発信できる時代に生きています。しかし、その一方で、無責任な言葉や攻撃的な言葉が氾濫しているのも事実です。
たとえば、SNSでの何気ないコメントが誰かを深く傷つけることがあります。悪意のない冗談が、思わぬ誤解を生むこともあります。逆に、一言の励ましの言葉が誰かの人生を変えることもあります。
イエス・キリストの教えを心に留めるなら、私たちはこう問いかけるべきでしょう。
「私は今、どんな言葉を使っているだろうか」「私の言葉は、人を傷つけるものだろうか。それとも、人を励ますものだろうか」
私たちの言葉を良いものにするためには、心の倉に良いものを蓄えることが大切です。では、そのためにはどうしたらよいでしょう。
第一に聖書の言葉に親しむことが大切です。
聖書は、私たちの心を養い、豊かにする神の言葉です。毎日少しずつでも聖書を読み、その教えを心に蓄えていくなら、私たちの言葉も変わっていくでしょう。
第二に祈りを大切にすることです。
祈りは、私たちの心を整える時間です。神の前に静まり、自分の思いや言葉を振り返ることで、より愛に満ちた言葉を選べるようになります。
第三に、いつも良い言葉に意識を持っていくことです。
日々の会話の中で、意識的に優しい言葉、励ましの言葉を使うよう心がけることが大切です。誰かを非難する前に、その人の良い面を見つけて言葉にする習慣が大事です。
最後に、もう一度イエス・キリストの言葉を思い起こしましょう。
「木が良ければその実も良い。」(33節)
私たちの言葉は、私たちの心の現れです。もし良い言葉を語りたいなら、まず私たちの心を良いもので満たすことが大切です。
あなたの心の倉には、どんなものが蓄えられているでしょうか。きょうからでも、心を耕し、愛と誠実に満ちた言葉を実らせていきましょう。もちろん、それが簡単に出来たら、言葉の失敗に悩むこともないでしょう。それができないところに、人間の深い罪があります。
聖霊の力に謙虚に信頼して、心の倉を整理するときに、少しずつでも変わっていくことができるのです。