聖書を開こう

崩れないと思っていたものが、崩れるとき(マタイによる福音書24:1-2)

放送日
2026年3月5日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:崩れないと思っていたものが、崩れるとき(マタイ24:1~2)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私たちの人生には、無意識のうちに「これは絶対に大丈夫だ」と信じ込んでいるものがいくつかあります。例えば、貯めてきたお金を預けている銀行。長年暮らしてきたこの国の存在。あるいは「明日も今日と同じように続く」という平穏な日常そのもの…。こうしたものは「急には変わらない」と思って、私たちはそれらを人生の土台として積み上げ、その上に自分の安心やアイデンティティを構築しています。

 しかし、人生には時として、その安心が根底から覆されることがあります。それまで「強固な岩」だと思っていたものが、実は砂上の楼閣であったと思い知らされるとき、私たちの心は大きく揺さぶられます。

 二千年前、イエスの弟子たちにとっても、そのような「絶対に崩れないもの」が存在しました。それがエルサレム神殿でした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書24章1節と2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 当時の弟子たちが何を見ていたのか、その歴史的背景を整理しておきましょう。

 この神殿は、もともとバビロン捕囚後に再建された第二神殿でしたが、それを大規模に改築し、壮麗な建物へと仕上げたのはヘロデ大王でした。エドム人出身であったヘロデ大王が、ユダヤ人の民心を掌握するために、数十年かけて大改築し、イエスの時代には主要部分は完成していましたが、まだまだ改築の途上にありました。

 途上とはいえ、その姿は目を見張るものでした。白い大理石が太陽の光を反射して輝き、一部は純金で装飾されていたため、遠くから見ると雪を頂いた山のように見えたと伝えられています。

 さらに驚くべきことはその構造です。神殿を支える土台には、長さ10メートル、重さ数百トンを超える巨大な石が積み上げられていました。これほど巨大な石を、一体誰が動かすことができるでしょう。それが当時の人々の実感でした。

 また、神殿は単なる建築物ではありませんでした。そこは「いと高き神の住まい」であり、神がこの地上でご自身の民と出会ってくださる唯一の場所であると信じられていました。日々捧げられる犠牲の動物、立ち上る香の煙、巡礼者たちの賛美と祈りの声。神殿があることは、神が自分たちと共におられることの証でした。「神殿がある限り、イスラエルは滅びない」という思想は、ユダヤの人々にとって、精神的な支えでした。

 しかし、イエスはおっしゃいました。

 「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 ここで、この言葉が語られた文脈に注目する必要があります。マタイによる福音書24章は、イエスが十字架にかけられる数日前の出来事です。

 イエスは直前の23章で、形骸化した信仰に陥っていた宗教指導者たちを厳しく批判されました。そして、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」と宣告して、神殿の境内から出て行かれます。この「神殿を出る」という行為は、神の栄光がその場所を去ることを示唆する、象徴的な動きでした。

 ところが、弟子たちはその深刻さに気づいていません。弟子たちは立ち去ろうとするイエスを引き止めるかのように、神殿の壮麗な建物を指さしました。

 「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マルコ13:1)

 弟子たちの目には、目に見える石の強固さ、宗教的な伝統の重み、そしてこれまでの「当たり前」が、変わらずそこにあるように映っていました。

 そこでイエスは、弟子たちの楽観を打ち砕く言葉を告げられます。

 「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 この預言は、当時の人々にとってはおよそ信じがたい、世界の終わりを告げるような不吉な言葉でした。

 歴史を振り返れば、このイエスの言葉は驚くべき正確さで成就しました。西暦70年、ユダヤ戦争の結果、ローマ軍によってエルサレムは包囲され、神殿は徹底的に破壊されました。

 しかし、イエスが告げたかったのは、単なる建築物の寿命や戦災の予測ではありません。それは、「形あるものへの絶対的信頼」に対する強烈な警告でした。

 「神殿さえあれば救われる」という形骸化した信仰、目に見える巨大な石を神の臨在と勘違いしてしまう傲慢さに対して、イエスは、それが終わりを告げ、神の救いの計画が全く新しい段階へと移行することを告げられました。

 たとえ数メートル級の石であっても、人間の権力であっても、時間と歴史の激流の中では崩れ去ります。この地上に、永遠に変わることのない「石」など存在しません。しかし、建物は崩れても、語られた神の言葉は決して滅びません。

 さて、現代に生きる私たちにとって、この「エルサレム神殿」に相当するものは何でしょうか。私たちにも「神殿」のようなものがあります。これがあるから安心。これがあるから自分は大丈夫と思っているもの。それは安定した職業、蓄え、肩書き、健康、あるいは教会という組織そのものかもしれません。

 もちろん、それらは大切なものです。しかし、それが絶対だと思った瞬間、それは神に代わる私たちの拠り所になってしまいます。そして、そのどれもが、決して永遠ではありません。

 崩れないと思っていたものが崩れるとき、それは私たちにとって裁きのように感じられるかもしれません。なぜこんなことが起きたのだろう、と問いかけたくなるでしょう。

 けれども聖書が指し示しているのは、崩壊の中でこそ、本当に揺るがないものが明らかになる、ということです。石は崩れます。制度も崩れます。歴史の中で、どんなに強大に見えたものも消えていきました。しかし、神の言葉は消えません。

 イエスはこのあと、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語られます。目に見えるものは過ぎ去ります。しかし、主の言葉は残ります。

 神殿が崩れた後、神との出会いの場は失われたのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエスご自身が、神と人とを結ぶ新しい道となられました。建物ではなく、キリストご自身が、神と出会う場となられたのです。

 崩れないと思っていたものが崩れるとき、それは絶望の瞬間であると同時に、土台を問い直す時でもあります。私は何の上に立っているのか。本当に揺るがないものの上に立っているのか。

 弟子たちは神殿の巨大な石を見上げていました。しかしイエスは、歴史の先を見ておられました。そしてさらに、その向こうにある神の救いの計画を見ておられました。

 もし今、あなたの人生で、揺らいでいるものがあるなら、その出来事の中で、主は問いかけておられるのかもしれません。「あなたは何を土台にして生きていますか」と。

 崩れる石の上ではなく、決して滅びない主の言葉の上に立つ人生へと、イエスは私たちを招いておられます。

 崩れないと思っていたものが崩れるとき、それは終わりではありません。本当に崩れない方に目を向ける、新しい始まりとなるのです。

 今日も、揺るがない主の言葉に心を向けながら、一日を歩んで行きましょう。

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