聖書を開こう

正しい人のふりをする危険(マタイによる福音書23:25-36)

放送日
2026年2月19日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:正しい人のふりをする危険(マタイによる福音書23:25-36)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 外から見るととても立派に見えるけれど、内側はまったく違っていた、という経験をしたことはないでしょうか。

 ラッピングはきれいなのに、中身は期待外れだったということもあります。あるいは、人からは「しっかりしている」と言われながら、心の中ではまったく別の思いを抱えている、そんな自分に気づくこともあるかもしれません。

 外側は立派に見えても、心の中はどうなのか。この問いは、決して他人事ではありません。

 興味深いことに、イエス・キリストが最も厳しい言葉を語られた相手は、露骨な罪を犯している人々ではありませんでした。むしろ、誰よりも「正しい人」に見えた宗教指導者たちに対してでした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書23章25節~36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

 律法学者やファリサイ派と聞くと、私たちはすぐに「悪者」のイメージを持ってしまうかもしれません。しかし実際には、当時最も敬虔な人々でした。

イエスはこうおっしゃいます。

 「あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」

 杯や皿の外側を清めること、これは当時のユダヤ人にとって、宗教的な清さの規定に従った大切な行為でした。しかしイエスはここで、外側だけを磨いても意味がないと言われるのです。本当に大切なのは「中身」だからです。

 イエスは続けておっしゃいます。

 「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」

 大切なのは、順番です。私たちはどうしても外側を整えれば中身もついてくると考えがちです。しかし、実際は心の動機が清められて、初めて外側の行動も意味を持つようになるからです。

 イエスはさらに厳しい言葉を続けます。

 「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」

 過越祭の前、エルサレムでは墓が石灰で白く塗られました。巡礼に来た人々が誤って墓に触れて汚れることがないようにするためです。しかし、外を変えても中にあるのは死と腐敗です。

 外側は正しく敬虔に見えても、内側にあるものが、神への愛ではなく、神の御心に背いた邪悪な思いだとしたらどうでしょう。これは、信仰を持つ者にとって最も警戒すべき危険です。

 29節から31節では、さらに鋭い指摘が続きます。

 律法学者たちとファリサイ派の人々は、自分たちの先祖が預言者たちを迫害したことを批判していました。墓を建て、記念碑を飾り、「もし、あの時代に生きていたら、そんなことはしなかった」と言うのです。

 歴史を批判することで、自分の正しさを主張する。これもまた、私たちの陥りやすい罠です。「あの時代の人々は間違っていた」。しかし、同じ状況に置かれたとき、本当に私たちは違う選択ができるしょうか。

 最後に、イエスは「アベルからザカルヤに至るまで」の義人の血の責任が、この時代に下ると宣言されます。

 では、この厳しい言葉から、私たちは何を学ぶのでしょうか。

 第一に、神は外側よりも心をご覧になるということです。人間は目に見える実績や肩書きに騙されますが、神を欺くことはできません。どれほど立派に見えても、心が神から離れているなら、それは空しいことです。

 第二に、偽善の最も恐ろしい点は、他人を欺くだけでなく、自分自身をも欺くことです。「自分は大丈夫」と思い込むとき、私たちは最も危険な状態にあります。「私はあの人たちよりマシだ」と言い聞かせているうちに、自分自身の本当の醜さ、そして救いが必要であることを忘れてしまいます。

 第三に、真の正しさは人に見せるものではなく、神との関係から生まれるということです。それは神の前に裸の心で立って、自分自身の姿を見つめることです。

 そして第四に、イエス・キリストご自身だけが、完全に内も外も一致した義なるお方であるということです。イエスは偽善を激しく非難されましたが、それはご自身が完全に真実な方だったからです。

 今挙げた4つのことがらは、決して他人事ではありません。

 私たちにとって、礼拝に行くこと、聖書を読むこと……。これらは素晴らしいことです。しかし、それが「私は良い人だ」と自分を納得させるための手段になっていたらどうでしょう。言葉では愛を語りながら、心の中では誰かを激しく裁き、排除してはいないでしょうか。

 私たちは今、「人からどう見られるか」が価値基準になりやすい社会にいます。「いいね」をもらうために、あるいは誰かを失望させないために、私たちは常に「正しい自分」「成功している自分」を演出し続けなければなりません。その疲弊こそが、現代版の「白く塗った墓」なのかもしれません。

 また、ニュースやSNSを見て、「なんてひどい人がいるんだ」と憤るとき、私たちの心には「自分はあんなに愚かではない」という微かな優越感が生まれます。私たちも他人を裁くことで自分の正しさを証明しようとしていないでしょうか。

 イエス・キリストは、彼らをただ論破し、滅ぼすためにこの言葉を語られたのではありません。この厳しい言葉の裏側には、主の悲しみと、招きが込められています。

 「正しい人のふりをするのは、もうやめなさい。そんなことをしても、あなたは救われない。あなたの内側の汚れを、隠さずにわたしに見せなさい」

これが、イエス・キリストの本当のメッセージです。

 このイエスの前で仮面を外すとき、まことの自由が始まります。人からどう見られるかではなく、神に愛されている者としての自由。自分を偽る必要のない、解放された生き方。これこそが、イエスが私たちに与えようとしておられる恵みなのです。

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