山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:信仰と現実社会、どう向き合うか(マタイによる福音書22:15–22)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私たちは日々、信仰と現実社会との関係について考えさせられます。税金、政治、社会制度。こうした話題に触れると、「信仰とは関係ない」「宗教は心の問題だけでよい」と感じる人も多いかもしれません。一方で、「神を信じるなら、この社会とどう関わるべきなのか」と悩む人もいます。実はこの問いは、現代だけのものではありません。二千年前、イエスもまったく同じ問いを投げかけられていました。
イエスの答えには現代の私たちが抱える葛藤への、驚くべき答えが隠されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書22章15節~22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
今、お読みした場面はエルサレムでの出来事です。イエスは神殿の境内で、民衆に教えておられました。そこに、「ファリサイ派」と「ヘロデ党」の人々がやってきます。
これは非常に奇妙な組み合わせです。ファリサイ派は、ローマ帝国の支配を嫌い、宗教的純潔を重んじるナショナリストたちです。対するヘロデ党は、ローマの権力にすり寄って利益を得ている親ローマ派です。普段は水と油、決して相容れないはずの両者が、なんと「イエスを言葉の罠に陥れる」という一点で手を組んでいます。
彼らはうやうやしく言いました。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。」
表面的には丁寧ですが、その裏には明確な悪意がありました。そして、核心の質問が投げかけられます。
「皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか、適っていないでしょうか。」
一見すると、社会と信仰の関係を真剣に尋ねているようにも聞こえます。しかし実際には、これはイエスを陥れるための罠でした。
もしイエスが「納めるべきだ」と答えれば、ローマ帝国に支配されていたユダヤ人の反感を買います。逆に「納めるべきではない」と言えば、反逆者として訴えられる危険がありました。どちらに答えても問題が生じる、悪意に満ちた質問でした。
しかし、イエスは彼らの悪意を見抜いておられました。そして、おっしゃいます。
「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」
彼らが差し出したのは、デナリオン銀貨でした。この銀貨には、ローマ皇帝ティベリウスの肖像が刻まれ、「ティベリウス皇帝、神聖なるアウグストゥスの子」という銘が記されていました。それは、ローマ皇帝を神格化する言葉です。
ここで重要なのは、ユダヤ人にとって、この銀貨を持つこと自体が大きな葛藤だったという点です。十戒には「何の像をも刻んではならない」という戒めがあります。ユダヤ人の硬貨には、この戒めを守るために人物の肖像は決して刻まれませんでした。しかも、ユダヤ人にとって、自らを「神の子」と自称する皇帝の顔が刻まれたコインを手にすること自体、本来は忌むべきことでした。
けれども、現実はどうでしょうか。彼らはその銀貨を日常的に使い、商売をし、生活をしていました。つまり、神の律法を重んじると言いながら、実際にはローマの経済システムにどっぷりと浸かっていました。宗教的良心と政治的現実の板挟み。それが、当時のユダヤ人が抱えていた深刻な矛盾でした。
イエスは、その銀貨を手に取って問われます。
「これは、誰の肖像と銘か」。彼らは答えます。「皇帝のものです」。するとイエスは言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
この言葉は、巧みに罠をかわしただけではありません。非常に深い意味を持っています。
イエスは「納める」ではなく、「返す」という言葉を使われました。皇帝の像が刻まれた銀貨は、皇帝のもとに返せばよい。それは皇帝の支配領域に属するものだからです。そこにはまた、十戒が禁じている偶像を自分たちの手元にとどめて置きながら、何の矛盾も感じない宗教的指導者たちの偽善に対する批判もこめられていたのかもしれません。
当時の社会状況を考えれば、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちにとって、他国のために税金を納めるのは不本意であったかもしれません。そういう意味では、自分たちの国のために納めるわたしたちの税金とは根本的に意味合いが違っています。しかし、そうであったとしても、考え方を変えることで、ユダヤ人たちの信仰とローマ帝国に納税することが、少しも矛盾しないことをイエスは示されました。
しかし、イエスの答えはそこにとどまりません。イエスはもっと深い問題に人々の目を向けさせています。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、ただ単に神と皇帝を同列においているのではありません。ここには、人間が生きる上での決定的な優先順位が示されています。
では、もう半分の「神のものは神に返しなさい」とは、何を指しているのでしょうか。皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨に対して、神のかたちが刻まれたものとは、いったい何でしょうか。
創世記1章には、こう記されています。「神は御自分にかたどって人を創造された」。神の像が刻まれているのは、銀貨ではありません。私たち人間そのものです。
イエスがおっしゃろうとしたことは、こういうことです。「銀貨は皇帝の支配下にあるかもしれない。しかし、あなたの命、あなたの心、あなたの全存在は、皇帝のものではない。それは神の像を刻まれた、神の所有物なのだ。だから、コインは皇帝に渡しても、あなた自身という最も大切なものは、神にお返ししなさい」。
私たちは、国籍を持ち、税金を払い、法律に従って生きています。しかし、信仰者としての私たちの「国籍」は神の国にあります。国家や政府が、私たちの良心や命の根源までをも支配することはできません。私たちは社会の一員として誠実に生きつつも、その中心では、神のみを「絶対的な主」として仰いで生きています。これが、イエスが提示された「信仰者の立ち位置」なのです。
問われているのは、何を最終的な主とするのか、誰の像を映して生きるのか、ということです。「神のものを神に返す」生き方とは、現実社会の只中で、神の主権を忘れずに生きることです。信仰と現実社会は対立ではなく、緊張を伴う共存の中にあるのです。









