山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:招かれているのに、なぜ入れないのか(マタイによる福音書22:1–14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
招待状が届いたのに、なぜか会場に入れない。そんな納得のいかないケースに自分が該当してしまうことは、普通は考えられないことです。
結婚披露宴や記念式典の招待状は、ただの紙切れではありません。そこには「あなたを大切な客として迎えたい」という主催者の思いが込められています。その招きに応えて、招待された者は日程を空け、身なりを整え、期待をもって会場に向かうでしょう。もし正規の招待状を手にしていながら、「あなたは入れません」と言われたら、強い違和感と憤りを覚えるはずです。
きょう取り上げようとしているイエスが語るたとえ話は、そうした感覚を通して、神の国とは何か、信仰とは何かを鋭く問いかけてきます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書22章1節~14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
今お読みした譬え話は、イエスがエルサレムで語られた一連の譬え話の一つです。
この譬えが語られた背景には、イスラエルの歴史全体が横たわっています。神は旧約の時代から、預言者たちを通して繰り返しイスラエルの民を招いてこられました。しかし、民は何度も神の招きを拒絶し、預言者たちを迫害し、殺害さえしてきました。そして今、宗教指導者たちは神の独り子であるイエスご自身を拒もうとしています。この譬え話は、まさにそのような状況への痛烈な警告でした。
当時のユダヤ社会では、婚宴は単なるパーティーではありませんでした。それは共同体の絆を確認し、祝福を分かち合う、きわめて重要な社会的・宗教的行事でした。特に王子の婚宴への招待を断ることは、王への侮辱であり、反逆にも等しい行為です。
この譬え話は三つの段階から成り立っています。
第一の招きでは、王が僕たちを送って、招待しておいた人々を呼びます。しかし、人々は来ようとしません。神の招きに対する、冷淡な無関心がここに表れています。
第二の招きでは、王が再び僕たちを送ります。「食事の用意が整いました」と。驚くべき忍耐と恵みです。それでも、招かれた人々は畑や商売に向かい、ある者たちは使者を捕まえて殺害さえしてしまいます。このたとえには、神の愛の極みに対する、人間の罪の極みが示されています。
第三の招きでは、怒った王は軍隊を送って殺人者たちを滅ぼし、今度は「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じます。善人も悪人も集められ、婚宴は客でいっぱいになりました。これは福音が異邦人にまで広がっていく預言であり、神の招きが民族としてのイスラエル人だけでなく、すべての人に開かれたことを意味しています。
しかし、物語はここで終わりません。王が客を見回すと、一人の男が礼服を着ていませんでした。当時、婚宴の主催者が客に礼服を用意するのが慣習でした(創世記45:22、列王記下 10:22、エステル記 6:8参照。いずれの場合もふさわしい服は下賜されている)。この男は礼服を用意する時間がなかったのではありません。用意された服を敢えて着ていないのです。王の問いに、その男は黙っていました。弁解の余地がなかったからです。
この礼服は何を象徴しているのでしょうか。神の礼服とは、私たちが努力して身につける信仰生活ではありません。それは、キリストがご自身の義をもって私たちを覆ってくださるという、一方的な恵みです。悔い改めと信仰の歩みは、その礼服を着せられた者として生きる応答に他なりません。
この譬え話は、二千年前の話ではなく、現在を生きる私たちにも語りかけられています。
第一に、神の招きは今も続いています。神はあなたを、神の国の祝宴に招いておられます。
第二に、私たちは招きを拒絶する危険にさらされています。最初に招かれた人々のように、私たちも忙しさや世俗的な関心に心を奪われていないでしょうか。その現実にさえ気がつかないほど、わたしたちの罪は大きいのかもしれません。
もっと怖ろしいのは、招きを暴力的に拒絶することです。現代ではキリストの福音を嘲笑い、信仰を持つ人々を蔑視し、神の存在そのものを否定することかもしれません。このたとえ話を通して、私たち自身の罪深さを他人事としてではなく、自分事として受け止めることの大切さを教えられます。
第三に、神の選びの驚くべき真実がここにあります。王は大通りに僕たちを送り、「見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じました。善人も悪人も集められました。これは人間の功績や資格によるのではなく、まさに神の一方的な恵みです。
第四に、礼服は、私たちが自分で用意するものではありません。キリストの義という礼服は、神が選ばれた者に着せてくださいます。
まことの信仰とは、自分には何の義もないことを認め、ただキリストの義にすがることです。しかし、この信仰そのものが、神の賜物です。私たちが信じることができるのは、神が信じる心を与えてくださったからです。こうした恵みを否定することこそ、与えられた礼服を着て来なかった男の姿です。
最後に、この招きは緊急性を持っています。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とイエスはおっしゃいました。神の招きは広く開かれています。しかし、その招きを真剣に受け止め、悔い改めと信頼をもって応答する人が少ないという現実を示しています。
神はあなたを愛し、招いておられます。その招きは、あなたが思っている以上に深く、広く、豊かなものです。しかし同時に、その招きは応答を求めています。
招かれているのに入れない。それは、神の選びの恵みを拒み、自分の力や功績に頼ろうとする姿に他なりません。私たちに必要なのは、自分の無力さを認め、ただ神の恵みにすがることです。その恵みを知るとき、私たちはもはや無関心でいることはできません。









