聖書を開こう

枯れた木が語る、信仰の力(マタイによる福音書21:18~22)

放送日
2025年12月18日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:枯れた木が語る、信仰の力(マタイによる福音書21:18~22)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

何か強く願っても、それが叶わなかった経験はありませんか。病気の癒しを祈り求めても、状況が変わらなかった。人間関係の回復を願っても、かえって関係が悪化した。そんな時、私たちの心には疑問が湧いてきます。「本当に神は祈りを聞いてくださるのだろうか」

 きょう取り上げようとしている聖書の箇所は、まさにこの信仰と祈りについて、私たちに深い教えを与えてくれます。それは、イエスがいちじくの木を呪われた出来事です。一見すると不可解に感じられるこの物語が、実は信仰の本質について語っています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書21章18節~22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

 今お読みした出来事の背景を少し振り返ってみましょう。イエスはエルサレムに入城されたばかりでした。群衆は「ダビデの子にホサナ」と叫び、王を迎えるように衣や木の枝を道に敷きました。そして、イエスは神殿に入り、そこで商売をしていた人々を追い出されました。神の家が「祈りの家」であるべきなのに、「強盗の巣」になっていたからです。

 その翌朝のことです。イエスは弟子たちと共にベタニアからエルサレムへ戻る途中、空腹を覚えられました。道端に一本のいちじくの木を見つけ、近づいて行かれましたが、そこには葉ばかりで実は一つもありませんでした。

 さて、この物語を読んで、多くの人が最初に抱く疑問があります。それは、「なぜイエスは罪のない木を呪われたのか」ということです。しかも、マルコによる福音書を見ると、「いちじくの季節ではなかった」という但し書きまであります。実がなっていないのは当然ではないでしょうか。

 実は、この出来事は単に自分の空腹を満たすための行動ではありませんでした。それは象徴的な行動、預言的な行為ともいうべきものです。旧約聖書では、いちじくの木はしばしばイスラエルの民を象徴するものとして用いられました。葉は茂っているのに実を結ばない木は、外見だけは立派でも、神の求める実を結んでいないイスラエルの霊的状態を表していたのです。

 前日、イエスは神殿で何をご覧になられたのでしょうか。祈りの家であるべき場所が、商売と利益追求の場になっていました。宗教的な儀式は盛んに行われ、外見上は立派に見えても、神との真実な交わり、憐れみと正義の実が失われていました。まさに、葉ばかりで実のないいちじくの木にそっくりです。

 イエスの言葉と共に、いちじくの木はたちまち枯れてしまいました。弟子たちは驚きました。しかし、イエスの関心は、ご自身の不思議な力を示すことにはありませんでした。弟子たちの驚きに対して、イエスが語られたのは信仰についての教えです。

 「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」とイエスはおっしゃいます。ここで重要なのは、「疑わない」という言葉です。これは単に知的な確信を持つということではありません。ギリシア語の原語を見ると、心が二つに分かれていない状態、神に対して全き信頼を持って向かう姿勢を表しています。

 山を海に投げ込むという表現は、当時のユダヤ人にとって、不可能なことのたとえでした。しかし、イエスはここで、信仰を持つ者には不可能なことはないと教えておられます。では、これは魔法のような力を約束しているのでしょうか。私たちが望むことは何でも実現すると保証しているのでしょうか。そうではありません。

 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。この言葉を字面通りに受け取ると、多くの問題が生じます。なぜなら、私たちは誠実に祈っても、願いが叶わない経験をするからです。しかし、イエス様の言葉の真意は別のところにあります。

 信じて祈るとは、神のご性質を信頼し、神のご計画に自分を委ねることです。それは、神が善い方であり、私たちにとって最善をなしてくださることを信じることです。時に、私たちの願いと神のご計画は異なります。しかし、まことの信仰は、自分の願いを神に押し付けることではありません。神のみこころが成ることを第一とすることです。

 いちじくの木が枯れたのは、神のさばきを象徴していました。実を結ばない信仰生活、形だけの宗教は、やがて枯れ果てるということです。同時に、それは神の言葉の力を示していました。神が語られるとき、それは必ず実現します。私たちが神のみこころに沿って祈るとき、その祈りもまた力があります。

 きょう、あなたの人生には、どのような「いちじくの木」があるでしょうか。 もしかすると、私たち自身が、外見は立派なクリスチャン、あるいは善良な市民として振る舞いながら、内側では愛が冷え、喜びが枯れ、形式的な毎日に疲れてしまっているのかもしれません。葉は茂っていても、実がない。そのような乾きを覚えている方はいらっしゃいませんか。

 あるいは、あなたの目の前に、どうやっても動かない「山」がそびえ立っているでしょうか。私たちの人生には、時として巨大な山のような障害物が立ちはだかります。病の問題、家族の悩み、将来への不安、経済的な困難。それらが大きな影を落とし、前に進めないように感じておられるかもしれません。

 しかし、枯れた木の傍らで、イエスは今、あなたに語りかけておられます。 「わたしを信頼しなさい」と。 「見せかけの自分を捨てて、ありのままの弱さを持って、わたしの前に来なさい。そして、あなたの前にある山について、わたしに語りなさい」、と。

 「神様、私にはこの山を動かす力はありません。しかし、あなたにはおできになります。あなたの御心のままに、この道を開いてください」と祈るとき、私たちは不思議な力を体験します。 状況がすぐに変わることもあれば、あるいは状況は変わらなくとも、その山を乗り越える力が内側から湧いてくることもあります。山が山でなくなる、あるいは山が海に移されるような、神の視点からの解決が与えられます。

 信仰とは、自分の小ささを認め、神の大きさを認めることです。 「枯れた木」は、神の力を離れた人間の空しさを語っています。しかし同時に、イエスの言葉は、神につながる者が持つ無限の可能性を語っています。

 きょう、私たちは心を新たにしましょう。 見栄や形式という「葉っぱ」で自分を飾るのをやめましょう。真実な祈りという「根っこ」を神の恵みの中に深く下ろしましょう。 あなたが直面しているその山に向かって、信仰をもって祈り始めてください。主は生きておられます。必ず、あなたの祈りに応え、最善の道を備えてくださいます。

 枯れた木が語るのは、終わりではなく、選び直しの機会です。信仰に生きるとは、毎日、神に向かって心を向け直すことです。きょうという一日を、実を結ぶ方向へと差し出していきましょう。神は、小さな一歩を確かに用いてくださいます。

 主の恵みと平安が、あなたの一日にありますように。心からお祈りしています。

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