山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:イエスも怒るその理由(マタイによる福音書21:12~17)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「怒り」という感情にどのような印象を持っているでしょうか。怒りはできれば避けたいもの、できるだけ抑え込むべきものと考える方も多いと思います。
しかし、一つ立ち止まって考えてみたいのですが、もし、怒りという感情がこの世界から完全になくなったなら、果たしてそれは本当に良いことでしょうか。誰かが不当な取り扱いを受けても、弱い人が虐げられても、誰も心を動かされず、怒りさえ抱かない世界は、はたして健全と言えるでしょうか。
怒りは確かに暴力や争いの原因にもなりますが、一方で怒りは、不正に対して立ち向かう力となり、正義を求める心の源になることもあります。
今日取り上げる聖書の箇所には、イエスが怒りをあらわにする場面が描かれています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書21章12節~17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
穏やかで優しいイエスのイメージを持っておられる方にとって、この出来事は意外な印象を与えるかもしれません。
イエスは神殿に入り、そこで商売をしている人々の台をひっくり返したと記されています。なぜイエスはここまで激しい行動に出られたのでしょうか。その怒りはどこから生まれたのでしょうか。今日はこの出来事を丁寧に見つめながら、イエスが怒りを示した理由を共に考えていきたいと思います。
イエスが訪れた神殿は、ユダヤ人にとって信仰の中心でした。神殿では犠牲の動物が献げられ、祈りがささげられていました。
特に過越祭の時期には遠方から巡礼者が大勢集まり、犠牲の動物を購入したり、神殿税を納めたりする必要があったため、神殿の境内では商売が行われていました。最初は、遠方からの巡礼者のための便宜を図った純粋な商売であったかもしれません。それが、いつの間にか人々の利得を求める場所へと変貌しつつありました。
本来、神殿は神に心を向け、祈りをささげる場所であるべきでした。
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」(マタイ21:12)とあります。
ここでイエスは激しい行動に出ます。それは単なる感情的な爆発ではありません。イエスは続けてこう言われました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)。イエスの怒りの理由は明確でした。神に仕えるための場所が、人間の利益追求と不正の温床になっていたことに対する怒りでした。
イエスは弱い者や悩んでいる者には深い憐れみを示されました。しかし、不正や偽善に対しては少しも妥協しませんでした。この出来事に続いて、神殿では目の見えない人や歩けない人がイエスのもとに来て癒されました(マタイ21:14)。イエスが排除しようとしたのは、弱さを抱えた人々ではなく、神殿を自分の利益のために利用する人々でした。イエスの怒りは、人々を神へと導くはずの場が、かえって神から遠ざける働きをしていたことへの怒りでした。
また、神殿で行われていた不正は単なる商売の問題ではありませんでした。両替人は巡礼者から不当に高い手数料を取り、犠牲用の動物は法外な価格で売られていたと伝えられています。その背後には宗教指導者たちの利権があったとも考えられています。人々が神に近づこうとする心が、巧妙な仕組みによって搾取されていたのです。イエスの怒りは、神との関係が金銭や権力の道具として利用されている現実に向けられていました。
さらに注目したいのは、幼子たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたことに対して、祭司長や律法学者たちが憤った場面です(マタイ21:15)。イエスは彼らに「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」と問われました(マタイ21:16)。立場や知識ではなく、純粋な心で神を見つめる者が真の賛美を献げることができるという、イエスの価値観が示されています。
では、この出来事は今の私たちに何を語りかけているのでしょうか。私たちの信仰生活にも、形だけが整っていながら心が伴っていないことはないでしょうか。教会の働きが、人を神に招くどころか、いつのまにか組織の維持のために動き始めることはないでしょうか。イエスは、祈りの家が「強盗の巣」と呼ばれているような状態に陥ることを悲しまれました。同じ問いが今の私たちにも向けられています。
怒りは、私たちを破壊へと向かわせる危険な感情です。しかし、正しい怒りは、私たちを神の前に立ち返らせる機会にもなります。イエスの怒りは、人を滅ぼすための怒りではありませんでした。人を神のもとへと導くための、愛に根ざした怒りでした。その怒りは、不正を正す行動へとつながり、弱い者を守る力となりました。私たちも、自分の内に眠る無関心や偽善に気づかされるとき、イエスの怒りに照らされ、悔い改めへと導かれます。
最後に心に留めたいのは、イエスが神殿を去ったあと、ベタニアという町に向かわれたことです(マタイ21:17)。イエスはただ怒りをぶつけただけで終わる方ではありませんでした。怒りの先には、神の救いの計画がありました。イエスは十字架へと向かう道を歩み続け、人々の罪のためにいのちを捧げられました。怒りは破壊で終わったのではありません。救いへとつながりました。
もし今、私たちの心が神の前に閉ざされていると感じる部分があるなら、そこにイエスのまなざしが注がれていることを思い起こしてください。イエスは、私たちが神に近づくことを妨げるものを取り除き、失われた者を探し求めるお方です。たとえ私たちが自分の弱さや失敗に押しつぶされそうになっても、イエスは決してお見捨てになることはありません。むしろ、弱さのただ中にこそ寄り添い、神の愛を示してくださるのです。









