聖書を開こう

偉い人は仕える人(マタイによる福音書20:20-28)

放送日
2025年11月20日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:偉い人は仕える人(マタイによる福音書20:20-28)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしたちのまわりには「この人は本当に偉い」と思わせる人がどれくらいいるでしょうか。たとえば会社の上司、学校の先生、尊敬するあの先輩。けれども、そうした人たちの中には、肩書きや実績は立派でも、心から「この人のようになりたい」と思えるかどうかはまた別の話かもしれません。

 反対に、何の肩書きもないのに、人を思いやり、静かに支え、そばにいるだけで心が温まる人がいます。私たちは時に、そのような人こそ本当の意味で「偉い」と感じるのではないでしょうか。

 今日の聖書の箇所は、まさに「偉さとは何か」という問いに、イエスが真っすぐ答えておられる場面です。

 しかしその答えは、私たちが日ごろ抱く価値観とは驚くほど違っています。力ある者が偉いのではなく、人の上に立つ者が尊いのでもなく、仕える者こそ偉いとイエスはおっしゃいます。この言葉はおよそ二千年年前に語られましたが、今の社会にも鋭い光を投げかけています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書20章20節~28節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 まずは、この場面の背景から少し見ていきたいと思います。

 マタイによる福音書20章に描かれるこの場面は、イエスと弟子たちがエルサレムへ向かって進んでいる途中に置かれています。エルサレムとは、イエスが十字架へ向かう最終の旅路です。この直前、イエスは三度目の受難予告を弟子たちに語っています。

 そんな緊迫した中で、予想外の出来事が起こります。ゼベダイの息子、ヤコブとヨハネの母親がイエスの前にひれ伏し、願いを口にします。

 母親はこう願います。

 「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」。

 右と左とは、王の最側近の座です。彼女は息子たちが栄光の地位につくことを願いました。母親としてわが子の成功を願う気持ちは理解できます。しかしその願いは、イエスがこれから歩もうとしている十字架の道とはずいぶんかけ離れていました。

 そしてイエスは静かに答えます。

 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。

 杯とは、苦しみと犠牲を象徴する言葉です。イエスは弟子たちに、栄光に近づくためには苦しみを共に担う覚悟が必要であることをお示しになりました。しかし弟子たちは状況を理解できず、「できます」と答えます。

 その様子を見ていた他の十人の弟子たちは憤りを覚えます。彼らもまた、自分たちが偉い者になりたいと心のどこかで願っていたからでしょう。人間の心は、立場や名誉を欲しがる弱さを持っています。弟子たちの心も、私たちと同じように揺れていました。

 弟子たちの間に生じた争いを前に、イエスは彼らを呼び寄せて語られました。

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。」

 この言葉は、当時の社会常識をひっくり返すものでした。ローマの支配下にあるこの時代、権力を持つ者は支配し、弱い者は仕えるというのが当然の秩序でした。しかしイエスはそれを真逆にしました。

 偉い者とは、仕える者。上に立つ者とは、すべての人に仕える者。

 イエスが語られたこの言葉は、単なる倫理的な教えではありません。イエスご自身がその道を先に歩まれたからです。

 イエスはこう続けます。

 「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」。

 私たちは弟子たちの姿を笑うことはできません。私たちの心にも、同じ願いが潜んでいます。

 「評価されたい」「認められたい」「自分の価値を示したい」

 そう願うこと自体は自然なことです。しかし、それが他者を押しのけたり、人の上に立つことを目的にし始めると、いつのまにか心が重くなり、人間関係がぎくしゃくし始めます。

 現代社会は競争の中にあります。職場でも学校でも、「成果を上げた者が偉い」「弱さを見せる者は負け」という空気が流れます。SNSでは、人に褒められる投稿、人の注目を集める発信が価値を持っているように見えます。

 しかしイエスは、そんな世界とは違う価値観を示しました。

 人を押しのけて得た栄光ではなく、 人を支えるところにまことの強さがある。

 この言葉は、忙しさに追われる現代にあって非常に挑戦的です。けれども、私たちが心から求めている生き方は、実はこの「仕える」生き方なのかもしれません。

 イエスが示した生き方は、弱々しいものではありません。むしろ世界を変える力を秘めています。権力や威圧ではなく、謙遜と愛によって隣人に仕える生き方こそ、もっとも深い影響力を持つ生き方です。

 私たちの一つ一つの小さな仕える行為もまた、周りの人の心を温め、希望をつくり出します。そしてその根っこには、イエスが私たちのためにまず仕えてくださったという圧倒的な愛があります。

 どうか、今日からの歩みの中で、イエスの示されたこの道を選び取ることができますように。偉さを求めるのではなく、愛をもって仕える者として歩むことができますように。小さな一歩でも、主は喜んで受け止めてくださいます。

 主があなたの日々を支え、豊かな祝福を注いでくださいますよう、心からお祈りいたします。

今週のプレゼント ≫番組CD「聖書を開こう」フィリピ4:2-4:13)(10名) 【締切】11月26日

新着番組

  1. 偉い人は仕える人(マタイによる福音書20:20-28)

  2. サムエル上19章 人知を超えて働かれる憐れみ深い神

  3. 執り成しの祈り

  4. 私たちの願いを祈る

  5. サムエル上18章 どこまでも神のみに依り頼む