山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:一番偉いのは誰か(マタイによる福音書18:1-5)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
子どもの頃、「誰が一番強いか」とか「誰が一番速いか」と友だち同士で競い合ったことはありませんか。
人は幼い時から「一番になりたい」という思いを抱くものです。そして大人になっても、その心は形を変えて残り続けます。社会で出世したい、人から認められたい、自分が優れていると見せたい。そのような欲求は、多かれ少なかれ誰もが持っています。
聖書に出てくるイエスの弟子たちも、例外ではありませんでした。彼らも「一番偉いのは誰か」という議論をしました。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書18章1節~5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
今、お読みした箇所に「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と問う弟子たちの質問が記されていました。一体なぜ弟子たちはこんな質問をしたのでしょうか。
直前の文脈を見ると、イエスは自分が苦しみを受け、殺され、三日目によみがえると予告していました(マタイ17:22-23)。しかし弟子たちは、その意味を深く理解できずにいました。それどころか、弟子たちの関心は「メシアと共に歩むことで、自分たちはどんな地位に就けるのか」という思いに傾いていたのでしょう。
当時の人々が思い描いていたメシア像のひとつは、ローマ帝国を打ち破ってイスラエルを再興させる王でした。弟子たちもまた、イエスがその王となると期待していたのでしょう。ですから、「その王国の中で自分はどんな役割を与えられるのか」「誰が一番偉い地位につくのか」という議論が起こったのだと思われます。
つまり、弟子たちはまだ「天の国」の本質を理解していなかったために、その心には、この世的な価値観…力、地位、名誉を求める思いが根強く残っていたということです。
その弟子たちの質問を受けて、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせました。当時の社会で子どもは今のように大切にされる存在ではありませんでした。権利もなく、社会的に弱い立場に置かれていました。大人たちの世界では、子どもは最も小さく、最も取るに足らない存在と見なされていました。
しかしイエスは、その子どもを「天の国で一番偉い人」の象徴として立たせました。イエスは言われます。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
ここで使われている「心を入れ替えて」という言葉は、「方向転換する」という意味です。つまり、自分中心の思いをやめて、神に信頼する生き方へと向きを変えることを意味しています。弟子たちは「一番になりたい」という欲望の方向に心を傾けていましたが、イエスはその思いを根本的にひっくり返すように求められました。
では、「子供のようになる」とはどういうことでしょうか。それは、親に全面的に頼る姿勢を意味しています。子どもは自分一人の力で生きて行くことはできません。親に信頼して生きています。同じように、天の国に入る人は、自分の力や功績に頼るのではなく、ただ神に信頼して生きる人です。
さらにイエスはおっしゃいます。
「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちんばん偉いのだ。」
ここで「自分を低くする」とは、自己主張を抑えて、神の前でへりくだることです。自分の力や知恵や功績に誇るのではなく、すべてを神の恵みにゆだねることです。地位や名誉を追い求めるのではなく、仕える者としての姿勢を持つことです。
そして最後にイエスは言われます。
「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる人は、わたしを受け入れるのである。」
社会的に小さく、弱い者を受け入れることは、まさにイエスご自身を受け入れることだと語られました。イエスの国では、力や地位ではなく、愛と謙遜によって評価が決まります。
現代の社会も、実は弟子たちと同じ問いを抱えています。「誰が一番か」「どちらが優れているか」という競争が、学校でも、職場でも、社会全体でも絶えず行われています。出世や評価や名声を求める心は、私たちの生活に深く入り込んでいます。
しかし、イエスは私たちに全く逆の価値観を示されました。「一番になりたい」と願う心を入れ替え、「小さな者と共に生きる」ことこそが、天の国での偉さだとおっしゃられたのです。
信仰の歩みは、子どものように神に信頼することから始まります。私たちは、自分の正しさや功績を誇って神の前に出ることはできません。ただ、罪人として神の憐れみにすがるしかない存在です。ただ神に頼って生きようとする信頼こそが、天の国への入口です。
ここで思い起こしたいのは、イエスご自身の歩みです。イエスこそ、神の御子でありながら、すべてを低くして人間として生まれ、罪人のために仕える者となり、ついには十字架にかかってくださいました。フィリピの信徒への手紙にはこう記されています。
「キリストは、…自分を無にして、僕の身分になり、…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)
イエス・キリストはその生涯によって、「自分を低くする」とはどういうことかを示してくださいました。
弟子たちは「誰が一番偉いのか」と問いました。しかしイエスは答えられました。「子供のようにへりくだる人こそ、天の国で一番偉いのだ」と。私たちの世界での評価基準と、神の国での評価基準は正反対です。この世では上に立つ人が偉いとされますが、神の国では低くなった人こそ偉いとされます。
私たちも弟子たちと同じように、「一番になりたい」という心を抱くことがあります。しかしイエスはその心を入れ替えて、子供のように神を信頼し、謙遜に仕える歩みへと招いておられます。そのとき、私たちは本当の意味で天の国に迎え入れられるのです。
どうか、今日のこの言葉が、一人ひとりの心に届きますように。神の国で本当に「偉い」とされる生き方、それは、へりくだって仕えるイエスに倣う生き方です。
いえ、そればかりではありません。イエス・キリストは「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる人は、わたしを受け入れるのである」ともおっしゃっています。イエス・キリストはもっとも小さな者のためにも十字架の上で貴い血潮を流してくださったのですから、その小さな一人にも心を向け、共に歩んでいくことが求められています。教会の中に自分より低い者を作り出してはなりません。小さなものを受け入れ、へりくだって仕える者こそが天の国では価値ある者なのです。どうぞその道を共に歩んでまいりましょう。