山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:栄光の山で聞こえた声(マタイによる福音書17:1-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストという言葉を耳にして、どんな姿をイメージするでしょうか。長い白い衣を着て、長髪でひげを蓄えた背が高い男性でしょうか。あるいは十字架の上で両手を広げてうな垂れた姿でしょうか。
実際にイエス・キリストとともに行動をしてきた弟子たちにとっては、外見は私たちと同じ人間にしか見えませんでした。暑ければ汗をかき、空腹になれば食事を口にする、どこにでもいる人間の姿です。もちろん、口から出る教えや、奇跡を行う姿は、普通の人間とは違っていますが、特別な後光がさしているわけでもありませんでした。
しかし、聖書には、私たちの想像を超えるような不思議なキリストの姿が記されています。きょう取り上げようとしてる場面がそうです。山の上で突然、イエスの姿が変わり、顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなった、と言うのです。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書17章1節~8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
今お読みした話を理解するためには、少し前の場面にさかのぼってみる必要があります。
弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白する、重要な出来事が記されていました。ところがそのすぐ後で、イエスがご自分の死と復活を予告すると、ペトロはそれを否定し、「そんなことがあってはなりません」と言ってしまいます。これに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペトロを厳しく叱責しました。
なぜペトロは、イエスの十字架の予告を受け入れられなかったのでしょうか。それは、ペトロが描いていた救い主は「勝利する者、力ある者、栄光に輝く者だ」という固定観念にとらわれていたからです。言い換えれば、目の前にいる人間の姿をしたイエス・キリストに、やがては勝利に輝く栄光の姿を見ていたからです。そうであるからこそ十字架で殺されるなどというメシアの姿は、ペトロの理解からは考えることもできませんでした。
そんなとき、イエスは三人の弟子たち、ペトロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登ります。そして、彼らの見ている前で、まばゆいほどの姿に変貌されます。これはある意味で、ペトロが期待していたメシアの姿であったとも言えます。
しかし、その姿は、一点だけ、ペトロや他の弟子たちが期待していた栄光の姿とは違います。イエス・キリストはメシアが苦難を受ける姿を弟子たちに予告されたばかりではなく、その後、復活することをも予告されていました。残念ながら、弟子たちはメシアが受ける苦難にばかり気をとらわれて、もう一つの大切な点、復活について聞き逃していました。
復活されたイエス・キリストは弟子たちに、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃって、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました(ルカ24:26-27)。
イエス・キリストが三人の弟子たちに見せた姿は、苦難を通して入るはずの栄光の姿です。それは弟子たちの信仰をもう一度しっかりと根拠づけ、揺るがせないものにするための出来事だったといえるでしょう。
それから、モーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていたと記されています。
モーセは律法を代表し、エリヤは預言者の代表です。先ほど引用したルカによる福音書の言葉にあったように、「律法と預言者」、すなわち旧約聖書全体が、イエスという人物を証ししているという意味があります。
さらに重要なのは、彼らがイエスと語りあっていたという点です。ルカによる福音書では、その内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について」、つまり、十字架の死について語っていたとあります。これはまさに、ペトロが受け入れられなかったテーマです。しかし神のご計画の中では、この十字架こそが栄光の道なのです。
この出来事のただ中で、ペトロが思わず口を開きます。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロのこの言葉には、イエスとモーセとエリヤを並列に置いているという危うさがあります。イエスだけが「神の子」であり、他とは次元が違う存在なのに、それをまだ理解していませんでした。
するとそのとき、光り輝く雲が彼らを覆い、その中から声がします。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。
これは、イエスが洗礼を受けたときにも天から響いた言葉に似ています。ただ、今回のほうがより強調されています。「これに聞け」……これこそが弟子たちへの神の命令です。
イエスの教えを聞くこと。イエスの語る言葉を信じて受け取ること。それが、神が私たちに求めておられる最も大切な応答です。もちろん、ここには苦難を予告されるイエス・キリストの言葉に聴き従うということも含まれています。
弟子たちは、この声を聞いてひれ伏し、大いに恐れます。神の声を聞くという体験は、それほどまでに圧倒的な出来事でした。
けれども、イエスは彼らに近づき、手を触れておっしゃいます。
「起きなさい。恐れることはない」。
ただの言葉だけではなく、イエスは弟子たちに触れて励ましてくださいました。
弟子たちが目を上げると、もうそこにはイエスだけが残っていました。これこそがこの出来事のクライマックスです。救いはイエス・キリストの中に完全に現れます。他の誰によってでもありません。ただキリストによってのみ、私たちは神に近づくことができるのです。
この出来事は、もちろん弟子たちの特別な体験です。しかし、山の上にとどまることはできません。イエスも弟子たちも、やがて山を下ります。そこにはまた現実の世界が広がっています。人々の悩み、苦しみ、争いが待ち構えています。
「これに聞け」という神の言葉は、今の私たちにも響いています。私たちは日々、いろいろな声に囲まれています。世間の評価、他人の声、自分の内なる不安や恐れの声…。しかし、私たちが本当に耳を傾けるべきなのは、イエス・キリストの声なのです。イエス・キリストはおっしゃっています。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)