山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:安息日の意味を考える(マタイ12:1-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ほとんどの人にとって、日曜日は休みの日だと思います。しかし、そもそも明治時代より前の時代の日本では、定期的に休みを取るという習慣はありませんでした。日曜日に休みを取るようになったのは、西洋文化が入ってきてからのことです。
欧米で日曜日が休みなのは、いうまでもなくキリスト教の影響です。週の最初の日にイエス・キリストが死者の中からよみがえったことを記念して、日曜日に集会を持つようになったからです。しかし、キリスト教が生まれる前には、「安息日」という制度がありました。これは聖書に記された天地万物創造の話にさかのぼります。神が天地万物をお造りなり、七日目にはその日を聖別されてすべての業を休まれたことに由来しています。ですから、ユダヤ人たちは、金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として守っています。
では、キリスト教的な安息日にせよ、ユダヤ教的な安息日にせよ、その日は何をする日なのでしょう。その日の中心は、共に集まって神を礼拝することでした。その目的のために、あらゆる仕事を離れ、手を休めることが求められました。
今日は「安息日の意味を考える」というテーマで、マタイによる福音書に記されたイエス・キリストの言葉からご一緒に考えたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は、新約聖書マタイによる福音書12章1節~8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
今日の話の場面は、ある安息日に空腹を覚えたキリストの弟子たちが、道すがら麦の穂を摘んで食べ始める話から始まります。それを見たファリサイ派の人々は、「安息日にしてはならないことをしている」と非難しました。なぜなら、ユダヤ人の間では安息日の規定が厳格に守られていたからです。
旧約聖書の出エジプト記20章8節から11節には、6日の間働いて、7日目には何の仕事もしてはならないと命じられています。これはモーセの十戒を構成する大切な掟のひとつです。ただし、何が労働に当たるのかについては、聖書にいくつかの具体的な例はありますが、細かい規定そのものはありません。
そういうわけで、ユダヤ人たちはこの戒めを厳格に守るために、「労働」と見なされる行為を細かく規定しました。その中で、麦の穂を摘むことや手でもみほぐして食べることは「刈り入れ」や「脱穀」に相当するとされ、労働と見なされました。
弟子たちの行動は「刈り入れ」や「脱穀」を安息日に行ったというだけにとどまりません。そもそも安息日に食べる食事は、前日までに準備することが、神の御心と考えられていました。というのは、神ご自身がその民を荒れ野で養われたときに、日ごとに天からマナを降らせて食料とさせましたが、安息日にはマナを集める労働をさせないために、安息日の前日には二倍の量のマナを降らせ、安息日にはマナを降らせることはありませんでした(出エジプト16章)。こうした事実から、不注意にも安息日の食料を事前に用意していなかたことは、十分に非難の対象となりました。
しかし、イエス・キリストはサムエル記上二一章に記されたエピソードに言及してファリサイ派の人々にこう反論されました。
「ダビデが空腹であったとき、神殿の供えのパンを食べたことを知らないのか。」(サムエル記上21:1-6)
これは、本来祭司以外が食べることを禁じられていた聖なるパンを、ダビデが必要に迫られて食べたという出来事です。イエスはここで、人の必要が律法の形式よりも優先されることを示されました。
さらに、イエス・キリストは「安息日に神殿に仕える祭司たちは安息日の掟を破っても罪に問われない」と言われました。これは、神に仕える働きのためには安息日でも労働が認められるという原則を示しています。そして、イエスは「神殿よりも偉大なものがここにある」と語られました。それはイエスご自身のことを指しています。つまり、イエスと共に歩む弟子たちの行動は、神に仕える祭司の働きと同様に、安息日の規定よりも重要であると語られたのです。
そして最後に、イエスは旧約聖書ホセア書を引用して「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と語られました(ホセア書6:6)。神が求めているのは、単なる形式的な律法の遵守ではなく、人への愛と憐れみをもって接することなのです。
この話は、現代の私たちに何を語っているのでしょうか。
私たちは、日曜日を「主の日」として守ります。これは、イエス・キリストが復活された日を記念し、礼拝をささげるための大切な日です。しかし、私たちも時として、「しなければならないこと」にとらわれてしまい、礼拝の本当の意味を見失うことがあります。
例えば、教会に行くことが大切だと考えすぎて、病気の人や介護が必要な人を無理に連れていこうとしたり、仕事の都合で礼拝に出られない人を裁いてしまったりすることはないでしょうか。しかし、イエス・キリストが示されたように、大切なのは「神を愛し、人を愛すること」です。私たちは、形式や規則よりも、神の愛と憐れみを大切にしなければなりません。
また、主の日の意味を考えるとき、それは単に「休む日」ではなく、「神との関係を深める日」であることを思い起こすことが大切です。礼拝に行ける人は、心から神を礼拝し、日々の恵みに感謝する時間を持ちましょう。そして、もし仕事や家庭の事情で礼拝に出られない場合でも、聖書を読み、祈る時間を持つことで、神との関係を大切にすることができます。
イエス・キリストは「人の子は安息日の主なのである」と言われました。つまり、私たちの信仰の中心は規則ではなく、キリストご自身なのです。私たちも、主の日をどのように過ごすかを考えるとき、イエス・キリストを中心に置き、愛と憐れみをもって行動し、神との関係を深めることを第一に考えていくことこそが大切なのです。