山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ: 天国に至る確かな道(マタイ11:1-6)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
進学や就職、結婚といった大きな選択肢の中で、何が正しい選択なのか迷った経験は誰しもあると思います。私たちの人生は常に選択の連続です。その中で確信を持てる道を見つけることは容易ではありません。
そうした選択肢の中で、ほとんどの人があまり考えたことがないことがらのひとつに、救いに至る選択肢があります。きょう取り上げようとしている箇所には、救いにいたる道をしっかりと見極めようとしている一人の人物が登場します。この箇所を通して、キリストへの信仰が私たちに与える確信と平安について考えていきたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書11章1節~6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
きょうからマタイによる福音書の学びも11章に入ります。今まで10章で学んできた事柄は、イエス・キリストが弟子たちを宣教へと派遣するに当たって、様々な心構えを弟子たちにお語りになった場面でした。
11章の冒頭には、弟子たちに宣教の心構えをお語りになった後、イエス・キリストご自身も方々の町で宣教に当たられたことが記されています。そうした宣教活動の噂が、獄中にいた洗礼者ヨハネの耳にも届いたのでしょう。ヨハネは早速弟子たちをイエス・キリストのもとへと遣わして質問をします。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
洗礼者ヨハネは、このマタイによる福音書の3章でも紹介されている通り、メシアの先駆者として神から遣わされてきた人物で、来るべきメシアを迎えるにふさわしく人々を整える働きをした人です。
そのヨハネは、ご自分のもとへとやってきたイエス・キリストを見て、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)と声をあげた人でした。
そのヨハネが、「来るべき方は、あなたでしょうか。」と問いかけているのは、少し不思議に感じられます。ナザレからやってきたイエスに洗礼を授けた時には、この方こそ神から遣わされたメシアだと確信をもっていたにもかかわらず、獄中生活を送るうちに、その確信が揺らいできたというのでしょうか。
確かにそうであったのかもしれません。遣わされたメシアがすぐにでもその力を発揮して、諸国の民を裁かれるのだと、ヨハネがそう思っていたのだとすれば、イエスの姿は期待外れであったかもしれません。イエス・キリストは病の人を癒し、罪人を弟子として加え、教えを宣べ伝えるだけで、一向に裁きを行う様子もありません。
しかし、この洗礼者ヨハネの言葉には、別の翻訳の可能性もあります。ヨハネの言葉は、疑問なのではなく、確信の言葉とも捉えることができます。
「あなたは来るべきお方です。はたまた他に誰を待つべきでしょう。」
ヨハネの心は疑問に揺れ動いたのではなく、むしろ自分の確信を確認するために弟子たちをイエス・キリストのもとへと遣わしたのだとも考えられます。ギリシア語で書かれた写本には疑問符の記号は書かれてはいませんから、どちらの翻訳も可能です。
洗礼者ヨハネが自分の確信を伝えたのか、それとも疑問を投げかけたのか、いずれにしてもここで注目したいのは、ヨハネが単に思いを抱くだけでなく、その思いをイエスに直接問いかけた点です。私たちも人生の中で、信仰に関する確信や疑問、不安を感じることがあります。しかし、そうした思いを心の中に閉じ込めてしまうのではなく、ヨハネのように神に向かって問いかける姿勢を持つことが大切です。
このヨハネの言葉に対するイエス・キリストのお答えは、「わたしこそその人だ」という言葉ではありませんでした。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」という言葉でした。いったいヨハネの弟子たちは何を見てどう自分たちを遣わした人に報告せよというのでしょうか。イエス・キリストの言葉は続きます。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
イエス・キリストがお語りになった言葉は、イザヤ書35章5節を思い起こさせる言葉です。イザヤはこう語っています。
「心おののく人々に言え。 『雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、あなたたちの神を。 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。 神は来て、あなたたちを救われる。』 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。」
救いの時が到来するときに起こる出来事が、今まさにイエス・キリストの到来とともに起こっていることを、洗礼者ヨハネのもとに戻って伝えよ、とおっしゃっているのです。
この答えには重要なメッセージが含まれています。それは、信仰が単なる感情や主観的な思いに基づくものではなく、神の確かな業と約束に根ざしているということです。私たちがイエス・キリストを信じる理由は、イエスが神の働きを成し遂げ、預言を成就させた事実に基づいています。
現代に生きる私たちにとっても、イエス・キリストの御業は聖書を通して明らかにされています。見えない人の目が開き、貧しい者が福音を聞くという出来事は、神が人々の苦しみの中に介入し、救いをもたらす力を持っておられることを示しています。
この箇所から学べることを、私たちの日常生活にどう適用すればよいのでしょうか。
まず、確信にしろ疑問にしろ、その思いを神に向けて正直に伝えることの大切さです。信仰生活において迷いや困難を感じることは避けられませんが、そのときこそ祈りを通して神に心を開くことが大切です。洗礼者ヨハネのように問いかける姿勢が、神との深い関係を築くきっかけとなります。
次に、聖書に記されたイエス・キリストの御業に目を向けることです。私たちの信仰は、イエスが示された確かな証拠に基づいています。困難なときには、聖書を開き、イエスの行いと思いを再確認することで、希望と力を得ることができます。
さらに、私たち自身がイエス・キリストの働きを模範とし、周囲の人々に愛と希望を示すことも重要です。
こうしたことを通して、救いに至る選択を確実に選び取っていくことができるのです。