申成日(広島教会牧師)
メッセージ:憐れんでくださる神の愛
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。広島教会の申です。
今朝の体調はいかがでしょうか。先週に続き、「神の愛」について、聖書の言葉を伺っていきたいと思いますが、今日は、「憐れんでくださる神の愛」についてのことです。
新約聖書に、息子の死を悲しむ一人の女性が出てきます(ルカ7:11-17参照)。彼女は、夫を先に亡くし、一人で息子を育てました。そのような状況から、彼女がこの一人息子にかける思いが、どれほどのことであるのかが伺えますが、そのような息子が、若くして死んでしまったのです。その死の原因は、病気なのか、事故なのかは分かりません。ただ、その母親の悲しみが分かるように、彼女は、棺が担ぎ出される中、悲しく泣いていました。
当時の習慣から言えば、死んだ人のお墓は、町の中にはありません。死んだ人は、城壁に囲まれている町の外に担ぎ出され、墓に葬られるわけです。人々によってその棺が担ぎ出される時、丁度反対側から、城に入る群れがありました。それは、神の子であるイエスと、イエスに従っている人々の群れです。そしてイエスは、悲しく泣くやもめの姿を目撃します。
そこで聖書は、イエスがその母親を見て「憐れに思った」と言っています。この聖書に記されている「憐れみ」という言葉は、「はらわたが揺れ動く」ことを意味する言葉です。イエスの憐れみは、ただ「かわいそうだ」と思うような同情心ではありません。まるでその悲しみが、自分のこととして感じられ、内臓が揺れ動くほどの「憐れみ」です。
皆さんは、そのような感情を抱いたことがありますか。多分、そのような感情を経験された方がおられると思います。わたしも酷い悲しみと憤りのせいで、内臓が激しく動き、お腹が痛くなって、しばらく横にならなければならない経験をしたことがあります。人の感情は、そのように体にも影響を及ぼします。
イエスは、そのような思いで彼女を見つめ、そのやもめに、「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)とおっしゃいました。それは、ただの慰めの言葉だけのことではありません。実際聖書には、イエスがその死んだ若者を生き返らせる場面が出てきます。神は、人を愛しておられる方であり、人の悲しみを心から同情し、憐れんでくださる方です。それはまるで、我が子の痛みを親が同じく感じるような憐れみです。
神の憐れみは、特に神から離れて生きる人々に対して、特別な思いで現れました。神は、神を離れて、自分を造られた神の存在を否定し、神を神として認めない人を、御自分のもとに取り戻すために、独り子であるイエス・キリストを十字架にかけるまでにして、人を愛しておられました。