聖書を開こう

信仰を告白する恵み(マタイ10:32~33)

放送日
2024年12月26日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  信仰を告白する恵み(マタイ10:32~33)

ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

日本のキリシタンに対する迫害の歴史は、壮絶なものがありました。その史跡を訪ね歩くときに、その時代に生きた人々の信仰に思いを馳せます。

もし、自分がその時代に生きて、踏絵を踏むような状況に置かれたら、果たして自分はどうするだろうかと、ときどき思うことがあります。キリスト教を信じるようになったばかりの頃の自分は、恐れと不安を抱きながらも、信仰を守り通す力は自分の中にあると思い込んでいました。

しかし、聖書の中で主イエスが弟子たちに語る言葉を学ぶに連れて、それが誤解だったことに気づかされました。きょうの箇所でイエス・キリストが教えてくださるのは、私たちの力ではなく、神の恵みによって信仰を告白できるということです。

それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 10章32節と33節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

きょう取り上げる言葉もまた、イエス・キリストが12人の弟子たちを伝道に派遣する際に語られた一連の言葉の中にあります。

弟子たちは、単に教えを広めるだけではなく、困難や迫害に直面することをも予想されていました。特にイエス・キリストが弟子たちを離れて天にお帰りになった後、弟子たちはユダヤの地方法院で裁かれたり、鞭打たれたり、さらには領主たちの前に引き出されることさえありました。

イエスはそのような状況で、弟子たちが恐れずに信仰を告白するよう励まされました。しかし、この信仰告白が可能となるのは、弟子たち自身の勇気ではなく、神の力と恵みによります。
イエス・キリストは「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と約束されました。この言葉には、私たちに対する大きな励ましがあります。

第一に、私たちの信仰告白は、単なる口先の行為ではなく、神の御前で永遠に記録される重要なものなのです。信仰を公に表明することは、イエスとの関係を深め、最終的に神の御前で「わたしの仲間」とされる保証となるのです。

これはとても大きな恵みです。イエス・キリストは、人々の前で何か立派な行いをせよ、とも、何か苦行を積んで周りの人々から驚嘆されるような人生を送れ、ともおっしゃっているわけではありません。ただ、私との関係を隠さず言い表せ、とおっしゃっておられるだけです。それだけのことで、神の家族としていただけるのであれば、これほど大きな恵みはありません。いえ、告白によって神の家族としていただけるのではなく、神の家族、神に属する者であるという恵みをすでにいただいているからこそ、それをありのままに告白することが大切なのです。

第二に、この信仰告白は、私たち自身の力ではなく、神の恵みによって可能になります。イエスは弟子たちに「恐れてはならない」と繰り返し語られました(10:26, 31)。一羽の雀さえ神に覚えられているなら、まして私たちは神に守られないはずはありません。実際、神はご自分の子らを見捨てられる方ではありません。必要な時に必要な力をお与え下さるお方です。この確信があるからこそ、わたしたちは信仰を大胆に告白できます。

しかし、イエス・キリストは次のようにも言われました。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。この言葉は私たちに対する警告として受け止められます。

私たちが迫害や困難を恐れ、イエスを知らないと否定してしまうなら、それは自分自身を神の恵みから切り離してしまう行為です。イエス・キリストがこのような警告をお語りになったのは、私たちを萎縮させるためではありません。そうではなく、むしろ信仰の歩みを支える神の恵みに依り頼むよう促すためです。

実際、弟子たちもイエス・キリストの十字架の前で逃げ出したり、ペトロのように三度イエスを知らないと否定したりしました。しかし、彼らは最終的に悔い改め、神の恵みによって信仰を新たにされました。私たちもまた、失敗や弱さを覚えるとき、神の恵みに立ち返ることが大切です。天の門が開かれている間、何度でも悔い改めて神に立ち返ることが許されているのです。
今日の日本では、信仰を公に告白することは必ずしも命の危険を伴うものではありません。しかし、それでも私たちは時に、職場や学校、家庭で信仰を明らかにすることにためらいを覚えることがあります。そうなってしまうのには、様々な理由があります。

例えば、信仰を言い表すことで、周りから勝手な評価を受けたくない、というのもひとつの理由でしょう。良くも悪くも自分は自分でしかないので、信仰者としての勝手なイメージで自分を見てほしくない、ということです。

あるいは、変に気をつかわれたり、逆にことあるごとに信仰を持っていることに突っかかってこられたり、そういう面倒に巻き込まれたくない、というのも理由でしょう。

どれも理解できる理由ですが、しかし、どれも自分で自分の身を守りたいと考える人間の思いから出てきた発想です。

そのようなとき、この聖書の言葉を思いだす必要があります。神は私たち一人一人に深い関心を持ち、私たちの信仰を支えてくださるお方です。私たちが私たち自身についてあれこれと心配する以上に、神が私たちに最大の関心を注いでくださり、必要な助けを与えてくださるお方です。私たちがどんな状況にあっても、神はその恵みによって私たちを強め、キリストを告白する力を与えてくださいます。

また、信仰を告白することは、周囲の人々に対する証しともなります。私たち信仰者としての何気ない生き方や言葉を通して、イエス・キリストの愛と真実が伝えられるとき、それは他の人々を神の元へと導くきっかけとなります。

「信仰を告白する恵み」とは、私たち自身の努力や勇気によるものではありません。神の力と恵みのままに生きることで生まれてくるものです。イエス・キリストは、弟子たちを励ましながら、困難の中でも神を信じ続けるよう導かれました。そして同じように、私たちも日々の生活の中で神の恵みに依り頼みながら信仰を告白する者とされることを願います。

どうかこの番組を聞いてくださっているあなたもまた、神の恵みに支えられて信仰を告白する勇気と力を持つことができますようにとお祈りいたします。

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