リジョイス聖書日課

エゼキエル20章 罪の悲惨に働きかける主なる神

放送日
2025年8月5日(火)
お話し
長谷部 真(堺みくに教会牧師)

8月5日(火) エゼキエル20章

「わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』エゼキエル書20章44節

 イスラエルの長老たちがエゼキエルのもとを訪ね、主の御心を求めた、第七年の第五の月の十日(1節)とは、エルサレム陥落の五年前、紀元前591年の八月のことでした。長老たちに告げられたのは、彼らの歩んできた罪に対する、神の怒りでした。

 主は長老たちに、人が主と共に生きるための掟に背き続けてきたイスラエルの罪の歴史を突きつけます(13節)。神と共に歩むことを拒むだけでなく、偶像に信頼し、安息日を汚してきたイスラエルの民に、主は怒りを示されます。そして、ご自身の働きかけをとおして、「わたしは生きている」と、繰り返し示されます。背きを繰り返すイスラエルの民に対して、神は忍耐強く彼らを導かれました。神は、イスラエルの歴史をとおして、私たちが背き続けるにもかかわらず、神はご自身の民を救い続けられるという恵みを、私たちに示しておられます。

 主なる神は、私たちに働きかけ、生き方の方向転換を迫ってこられます。それは、主が生きておられる証拠です。主イエス・キリストの十字架をとおして神の憐れみが示され、私たちは悔い改めへと導かれます(ロマ2章4節)。忍耐をもって私たちを導かれる主が、きょうもあなたと共にいて、働きかけてくださいます。

 【祈り】

 主よ、御言葉をとおして、私たちの歩みに働きかけ、私たちを御心に従うものとして導いてください。