小出昌司(高知教会牧師)
メッセージ:本当の宝
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知市上町4丁目にある改革派高知教会牧師の小出昌司です。
聖書の時代にも貨幣経済は確立していましたから、聖書の中にも、富に対する教えがあちこちに見られますが、「富が悪である」と教えている箇所は、何処にもありません。しかし、富に対する貪欲は、厳しく戒められています。
主イエスが「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)という言葉で、額に汗しないで、濡れ手で粟のように富を得ようとする貪欲に対しては、警告を発していますが、日常の生活をより向上させようとして富を得るために、勤勉に働くことは、推奨しています。
このことについて、主イエスは、お得意のたとえ話を用いて教えておられます。この年は、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」(ルカ12:17)と、思い巡らさなければならないほどの豊作であったのですが、金持ちが考えたことは、「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい」(ルカ12:18)こむことであったのですから、彼には、働いてくれた人に分配するというような発想はなかったのです。
蒔かれた穀物の種が芽生えるのも、芽生えた植物が花を咲かせ、実を付けて収穫できるのも、全て神さまが成しておられることなのに、この金持ちには、豊かな収穫を神さまに感謝している姿は全く見られないのです。
それだけではありません。「これから先、何年も生きて行くだけの蓄えができたから、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう」と言ってますから、未来の時間も、この世の命も、富さえあれば「私のものになる」いう、愚かな錯覚に陥っていたのです。彼の人生には、神さまは全く不在であったのです。ですから神さまは、「愚か者」という呼び掛けで、「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、だれのものになるのか」(ルカ12:20)という警告を発しておられるのです。
このたとえ話は、金持ちだけではなく、群衆全体に語られているのですから、今この話を聞いている私たちに対しても語られている言葉として、聞かなければならないのです。
神さまと人間のこの世の命との関係は、神さまが命の造り主であり、与え主であるのですから、私たちの命は、自分のものでありながら、自分のものではないのです。ですから、富が豊かになっても、神さまから与えられた命は豊かにならず、豊かになったはずの富も、結局は、自分の命を養うものとはならないのです。
だからと言って、キリスト教は、「宵越しの金は持たねぇ」というような、刹那的に生きる江戸っ子的無計画な人生を勧めているわけではないのです。また、老後のために計画的に蓄えることを禁じているわけでもないのです。高齢化時代といっても、老後はせいぜい20年から30年位のことですから、それ以上の蓄えを持ったからといって、この世の命が長くなるわけでもありませんし、蓄え過ぎて残ったものは、別の人の不労所得となるのですから、空しいことであるのです。
金さえあれば何でもできるかのように錯覚している人は、今でもいます。確かに、お金があれば高度医療を受けることができますから、命を長らえることは出来ますが、それも、一時のことに過ぎないのです。
この世の命を終えたあとに、神さまがご用意して下さっている永遠の命を得るために、貯めておかなければならないのは、この世の財産ではなく、「信仰」という財産であるのです。永遠の命を得るために持って行くことができるのは、信仰という財産によって、この世に表わしてきた善い行いだけであるのです。
短いこの世の人生の始まりを決めるのも、終わりを決めるのも、人ではなく、神さまですから、このことを客観的に見据えながら、与えられた人生の喜びを満足させるために、勤労にいそしみながら、その一方で、いつ人生の終わりが決められても良いように、新しい倉庫に、信仰の実りである善い行いをため込んで置かなければならないのです。
信仰こそ、泥棒に盗まれることもなく、火事で燃え尽きることもない、本当の宝であるのです。
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