小出昌司(高知教会牧師)
メッセージ:見ないで信じる信仰
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知市上町4丁目にある改革派高知教会牧師の小出昌司です。
今朝は、主イエスの直弟子の中から「トマス」という弟子のお話をさせていただきます。
主イエスが復活された日曜日の夕方、ユダヤ人の迫害を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けて潜んでいたの弟子たちの真ん中に、主イエスが復活の姿を現されました。そして、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)と言われて、手と脇腹とをお見せになったのです。
その両手の平には、十字架に釘づけにされた傷痕がありましたし、その脇腹には、完全な死であることを確認するために、死刑執行に当たったローマ兵によって突き刺された槍の傷痕があったのです。
復活の主イエスが去って行かれたあと、何かの事情で遅れてやって来たトマスに向かって、他の弟子たちは、「わたしたちは主を見た」(ヨハネ20:25)と口々に言ったのです。言う方の立場からすれば、言わずにはおれない程の喜びであったのですから、止むを得ないかもしれませんが、たったひとり聞く側に回らさせているトマスにとっては、苦痛以外の何ものでもなかったのです。
復活の主イエスと出会う喜びを、他の弟子たちと共にすることができず、ひとり蚊帳の外に置かれたトマスは、何人もの弟子たちから繰り返し言われる「わたしたちは主を見た」という言葉に我慢ができず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)と言い放ってしまったのです。
そのために、「疑い深いトマス」というありがたくないニックネームで語り継がれていますが、人のどんな良い性格であっても、限度を超えると悪い一面が現われますから、物事を曖昧にしておけないトマスの性格が、「見なければ信じない」という言葉を発せさせたのでしょうが、そこまで追い込んだ他の弟子たちの態度を見逃しにすることはできないのです。
「さて八日の後」、今度は「トマスも一緒にいた」(ヨハネ20:26)のです。どのような集団であれ、人間関係がうまくいかなくなった時には、解決しようとするよりも、逃げ出したい気持ちが先に立つのが人の常であるのに、トマスは、一週間後の日曜日には、弟子たちの集団と行動を共にしていますから、賞賛に値します。それは、トマスが主イエスを慕っていたからですが、弟子団の中に留どまってさえいれば必ず主イエスに出会える、という確信を持っていたからであったのです。
前の週に続いて、復活の姿を現された主イエスは、今回は、トマスひとりに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。」(ヨハネ20:27)と言われたのです。
トマスが主イエスの言葉に促されて、手と脇腹に触れたのか、触れなかったのかは分かりませんが、トマスは、自分の口から飛び出した言葉を聞いていて下さり、自分のために現らわれて下さったことを知った瞬間、頑くなな心が開かれ、疑いは吹き飛び、もはや触れる必要なく信じることができたのです。
「わたしは決して信じない」と言い放っていたトマスの言葉に対して、主イエスが言われた「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)いう言葉は、今の時代の私たちにも言われている言葉です。
それほど、復活は信じがたい出来事であるのです。一点の疑いもなく復活を信じることができる人は少ないのですから、「聖書の中に復活の出来事さえなければ信じられるのに…」という人さえ現われているのです。私たちは、復活した主イエスを肉眼で見ることはおろか、主イエスの復活に出会った弟子たちの証言を肉声で聞くこともできません。
しかし、このような私たちに、聖書が与えられているのです。
主イエスは、聖書の中から、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と声を掛けていて下さっていますし、「聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)と言っておられますから、主イエスの復活を記念する日曜日ごとに、教会に集まって、復活の主イエスを通して、父なる神さまを礼拝する時、復活の主イエスは、私たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言って祝福を与えて下さり、弟子たちが主イエスを見て喜んだのと同じ喜びが、あなたがたにも与えられるのです。
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