山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ: 神の国を知らせる旅への派遣(マタイ10:5~15)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「派遣」という言葉を聞いて、まず思い浮かべることは何でしょうか。「派遣社員」や「派遣業務」など、現代社会はさまざまな分野でこの「派遣」という言葉が使われています。派遣される人は、特定の目的や役割を果たすために送られて来るのですから、その目的にふさわしい技能と才能を持った人であることが前提になっています。
きょうはイエス・キリストがお選びになった弟子たちに「出発の使命」をお与えになった場面からご一緒に学びたいたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 10章5節~15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
今お読みした箇所で、イエス・キリストはまず弟子たちに「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」と命じられました。そして、伝道の対象を「イスラエルの家の失われた羊」に限定なさいました。このような指示は、一見すると排他的に感じられるかもしれません。しかし、ここでの教えは特定の時代と状況の下で語られたものです。従ってそれはイエス・キリストの地上での宣教の一部として理解する必要があります。
旧約聖書では、イスラエルの民は神に選ばれた特別な民とされています。しかし、神の民であるはずのイスラエルの人々は幾度となく神に背き、迷える羊のようになってしまいました。イエス・キリストはまずその羊たちを神のもとへと呼び戻すことに集中されました。それは「神の国は近づいた」という福音の第一歩として、イスラエルの回復を優先する神の御計画でした。
しかし、イエス・キリストが復活された後、その範囲は拡大します。マタイによる福音書28章19節以下に記される「宣教命令」では、弟子たちにあらゆる国の人々を対象に福音を伝えるように命じられました。この変化は、神の救いがユダヤ人だけでなく、すべての人に及ぶ普遍的なものであることを示しています。実はそのような拡大はすでに神の御計画の中にあったものでした。
イエス・キリストは弟子たちに「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を清め、悪霊を追い払いなさい」と命じました。これらの奇跡は、単なる超自然的な現象ではありません。それは神の国が近づいていることを証明する「しるし」として行われました。もっとも、今の時代は聖書が完結し、聖書が神の国の到来の出来事を力強く語っているのですから、超自然的な奇跡は宣教にとって不可欠な要素というわけではありません。
また、イエス・キリストは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とお命じになっています。救いのメッセージや奇跡的な癒しは、弟子たち自身の力ではなく、神から与えられた恵みです。そのため、それを人々に伝える際にも、対価を求めることは許されません。この姿勢は、私たちが福音を伝えるときの基本的な態度として心に留めたいものです。私たちが受けた神の愛と恵みを、惜しみなく他者に分かち合うこと、それが神の国を広める道なのです。
イエス・キリストは弟子たちに、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」とお命じになりました。これは極端な禁欲主義を求めたものではありません。宣教に赴く弟子たちには何よりも神への信頼を優先させるべきことが教えられています。神を信頼できない人の言葉を誰が真実な言葉として受け入れるでしょうか。
けれども、弟子たちは旅の間、誰かの家に宿泊し、その家から必要な食べ物や助けを受けることは許されていました。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」といわれている通り、福音の宣教者は神の国のために働くことで生活を支えられるという信頼を持つべきだという教えです。必要な時に必要な物が満たされるというのは、伝道者が経験することができる素晴らしい恵みです。この恵みをいただくからこそ自分の生活のことで心を奪われることなく、御言葉の宣教に専念することができるのです。
しかし、誰の世話になるのかには、慎重な吟味が必要でした。好待遇で迎えてくれる家を探し回って、家から家を渡り歩くことは禁じられていました。これは現代の私たちにも通じるものがあります。私たちが神の御言葉に従事する中で、必要なものは必ず与えられると信じ、行き過ぎた不安を抱えたり、過剰な期待を求めないないことが大切です。
最後に、イエス・キリストは弟子たちに、入る家ごとに平和があるように挨拶するよう命じました。この「平和(シャローム)」という言葉は単なる挨拶ではありません、神の祝福と和解を表す言葉です。弟子たちが祈り求める平和は、単なる人間関係の調和だけではなく、神との正しい関係に基づく深い平和です。
もしその平和が受け入れられない場合には「その平和はあなたがたに返ってくる」とあります。語る福音を受け入れてもらえないというのは、宣教をする者にとってつらい経験であるかもしれません。しかし、その事態を受け止めることも大切です。福音の宣教は、決して意地で説得したり論破することで前に進むものではありません。
マタイによる福音書10章5節から15節に記されている教えは、12人の弟子たちに与えられた特別な命令ですが、その中には現代の私たちにも適用できる重要な教訓が含まれています。私たちもまた、神の福音をただで受けた者として、それを惜しみなく分かち合う使命があります。そして、神に信頼し、平和と祝福を祈り求めながら日々歩むことが求められています。
イエス・キリストが弟子たちにお与えになったこの使命を、自分の人生の中でどのように実践できるのか、真剣に考えてみることは、今の時代にも大切なことなのです。