山下 正雄 (ラジオ牧師)
タイトル: 「自分が赦せないのですが」 神奈川県 Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのTさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生。番組をいつも聞かせて頂いています。先生はいつも相手の立場を考えて、優しい言葉でお答えくださっているので、聞いていてほっとします。
さて、きょうはわたしの悩みのご相談にのっていただきたいと思いメールしました。
それは、わたし自身、自分が赦せないのです。周りの人には寛容な気持ちになれるのですが、自分の間違いや矛盾した考えを赦すことができずに、悶々とすることが多いのです。
回りの人たちは『自分には厳しく、他人にはやさしくしているのだから、その方がいいじゃない』と言ってくれます。確かに、それはそうかもしれません。しかし、自分を赦すことができない自分に息苦しささえ感じてしまい、どうしたらよいのか悩んでいます。アドバイスをよろしくお願いします。」
Tさん、メールありがとうございました。確かに回りの人たちがおっしゃるように、他人に厳しく、自分に甘い態度よりはずっと人間関係をよくたもつことができると思います。しかし、ご本人にとっては、自分をいつまでも赦すことができないと、心が重苦しくなってしまい、前に進むことが難しくなってしまいます。どこかで自分を赦してあげないと、自分を肯定的に受け止めることさえできなくなってしまいます。
さて、自分が赦せないというのは、事柄にもよるとは思いますが、Tさんの場合、どんなことが自分で自分が赦せないと感じられるのでしょうか。メールには「間違いや矛盾した考え」とありますが、人間であるがために単純なミスをしてしまうということはよくあることだと思います。もちろん、職業によっては単純なミスでさえ命に関わる重大な結果を招くこともありますから、許されないということもあるでしょう。しかし、人間であるがためにしてしまうミスということであれば、それを防ぐのには、システムを見直さなければ防ぎようのないものもあります。そういうものに関しては、くよくよするよりも、ミスの発生を未然に防ぐシステムを考えた方がよほど世の中のためになるはずです。
そもそも、その人の能力を超えていることを求めたために発生する間違いは、赦す赦さないの問題ではありません。もし、Tさんがそういう種類の間違いで自分を赦せない気持ちになっているのだとしたら、それは考え方を変えた方がよろしいかと思います。
もう一つTさんが挙げておられる「矛盾した考え」についてはどうでしょうか。具体的な例が挙がっていませんので、なんともお答えしようがありませんが、たとえば、道徳的に矛盾した考えを持つことは確かに赦しがたいことだと思います。「人間は皆生まれながらにして神の前に平等だ」という考えを持ちながら、「しかし、あの人だけは他の人と平等に扱うことはできない」という考えを持っているとしたら、それは赦されないほど矛盾した考えです。
しかし、人間は往々にしてそういう矛盾を平気でしてしまうことがあります。聖書は特に罪ある人間の生き方はそうした矛盾に満ちていることを指摘しています。
たとえば、イエス・キリストはファリサイ派の人々や律法学者の生き方を批判して、こうおっしゃっています。
「あなた方は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」
確かに、このような生き方は決して赦されるものではありません。しかし、もし絶対に赦されないとなれば、救いの可能性などまったくなくなってしまいます。
もしそうした自分の罪深さに気がついて、その自分を自分で赦しがたいと思っているのでしたら、どうぞ、そういう罪深い人間をこそ神は救おうとなさっていらっしゃるということを思い起こしてください。
聖書によれば罪を赦す権威は神だけが持っています。その権威を人間が横取りして、何でもかんでも赦してしまうとすればそれはそれで大きな問題です。世の中、なぁなぁの世界になってしまいます。けれども、神が赦そうとされているにもかかわらず、それを拒みつづけるとしたら、それもまた大きな問題です。
Tさんに今必要なのはわたしたちの罪を本当に赦してくださるお方との出会いなのではないかと思いました。もしも、神の赦しと和解をうけいれるならば、もはや自分で自分を赦さないという考えに悩まされることはないはずです。神様が赦しを与えているのに、どうして、わたしたちが自分の罪を神様が扱う以上に扱ってよいでしょうか。どうぞ、イエス・キリストを通して示してくださっている神の赦しと和解を心から受け入れて欲しいものだと思います。
一般的に言って、Tさんのお友達がおっしゃってるように、自分に厳しくあることは、他人にだけ厳しくあるよりもずっとよいことだと思います。しかし、自分への厳しさもよくよく考えてみれば、ことと場合によっては、自分への自信の表れである場合もあると思います。
本当に自分で自分が赦せないと自覚しているのであれば、そして、その赦せない自分に苦しさを感じているのであれば、本当の赦しを与えてくださるお方のものとに自分の身を投げ出して、すべてをおまかせするより他はないはずです。しかし、それができないのには、一つにはまだ自分で何とかできるという自信がどこかにあるからです。あるいは、神のみ前に全部を投げ打って赦しを求めるよりは、今のままでいる方がまだましだという考えもあるからではないでしょうか、もちろん、Tさんがそうだと言っているのではありません。そういうことが理由で自分が赦せない状態にずっと留まりつづける人もいるということです。
神が赦していてくださっているということを一旦受けとめてしまえば、もはや自分が自分を赦さないことが、どれほど無意味であるかということが自覚できるようになるものです。
もちろん、そのことは自分の間違いを平然と棚に上げて日々を暮らすことではありません。間違った生き方を悔い改めることはいつでも必要なことです。しかし、それは赦しを請うために悔い改めるのではなく、むしろ逆で、神が赦していてくださるからこそ、悔い改めて正しい道に立ち返ることが可能なのです。
どうぞ、Tさんも、わたしたちを両手を広げて迎え入れてくださる聖書の神の懐に飛び込んでみてください。そうすれば、きっと赦せなかった自分自身を赦して受け入れることができるようになると思います。
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