滅亡の奴隷か主の奴隷か | ペトロの手紙二 2章

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ペトロの手紙二 2章

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ペトロの手紙二 2章20節

滅亡の奴隷か主の奴隷か

「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知」るならば、「世の汚れ」から逃れることができます。世の汚れは私たちの目には何ものにも勝って強い力を持つように見えることもあります。しかし、救い主を深く知るならば、世の汚れから逃れることができるのです。

ただひとたび、世の汚れから逃れても、それに「再び巻き込まれ」ることがあると書かれています。それも、「再び巻き込まれて打ち負かされる」ことがあると言うのです。「打ち負かされる」ことがあるのは当然と言えば当然でしょう。世の汚れは人にとって力あるものです。人を「滅亡の奴隷」(19節)にするほどのものなのです。もし、私たちが再び巻き込まれることがないとすれば、それは、私たちがキリストを深く知るのみならず、キリストをまことに「わたしたちの主、救い主」としたときでしょう。

私たちは強くありません。「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」と言われています(22節)。しかし、キリストを主とする主の奴隷である限り、私たちが「滅亡の奴隷」へと逆戻りすることはありません。主こそ、何にも勝って力ある方だからです。

尾崎 純(東仙台教会)