マタイによる福音書 16章
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 マタイによる福音書 16章24節~26節
真の命を得るために
中田 稔(丸亀伝道所)
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 マタイによる福音書 16章24節~26節
中田 稔(丸亀伝道所)
2019年10月の聖書日課をまとめて表示します。
「マタイによる福音書」の聖書日課をまとめて表示します。
中田 稔が担当した聖書日課をまとめて表示します。
主イエスは、弟子たちに、ご自分が多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっていると告げられました。するとペトロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、主イエスの言葉を否定しました。ペトロは、人間的な考えの中で、主イエスの言葉を聞いていたからです。しかし、主イエスは、人間的な思いで命について考えるのではなく、真の命がどこにあるのかをよく考えなさい、とおっしゃいました。
真の命はどこにあるのか。それは、主イエスの十字架の贖いの下に与えられる命にあります。その命は他のなにものにも代えがたい尊いものです。ですから、私たちは、主イエスと同じように「自分の十字架を背負」うのです。それはこの世の成功や賞賛を求めるのではなく、主イエスがそうされたように、父なる神の御心を尋ね求め、謙遜に、従順に従う歩みです。
主イエスは、父なる神に従い通すことによって、その命を真にご自分のものとなさいました。私たちもこの主イエスを信じ、従うことによって真の命をいただく者になりましょう。