
申成日(広島教会牧師)
メッセージ:朝を迎えるありがたさ
【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。広島教会で牧師をしております、申ともうします。今年に入って、早くも2月になりました。今朝あなたは、どのような朝を迎えておられますか。
先日、妻がある集会で証しをした時に、「明日の朝、目が覚めませんように」と祈ったことがあると言いました。わたしは、そのような祈りをした覚えがありませんので、妻がそのように思ったことがあるという言葉に驚きながら、「よほど辛かったんだろうな」と思いました。
すべての人がそうだとは言えませんが、おそらく、同じような思いを、人生の中で一度はしたことがある方が多いと思います。この放送を聞いておられるあなたは、いかがでしょうか。様々な人間関係の中で、落ち込んでしまったり、悲しくなったり、自分が嫌になって、そう思っている人もいると思うし、あるいは、自分、もしくは、身内の方の病気によって疲れ果てて、明日を迎えたくないと思っている方もいると思います。生きることがとても大変だと思っているでしょう。
聖書の中でも、同じ思いをしている人がいます。彼の名前は、「ヨブ」という人です。彼は、とても神への信仰が篤く、正しい人でしたが、持っている財産と家族を全部失う、思いがけない大きな試練と苦しみに遭って、その時に、「曙のまばたきを見ることもないように」(ヨブ3:9)と祈ったことがありました。彼がどれだけ辛い時を過ごしているのかが、よく感じられる言葉です。
「朝を迎えたくない」というのは、そのような苦しさのみならず、人は寝るときに、死への恐怖があったようです。また、悪魔が暗闇を支配していると思っていたようです。だから、よく寝る前の祈りの中で、「無事に明日の朝を迎えるように」と祈ったそうです。人が寝るときは無防衛になってしまうので、そのような不安を感じたかもしれません。
しかし逆に、生きることに疲れを感じている人にとっては、「明日の朝、目が覚めませんように」と祈ることもあるでしょう。死への恐怖がありますから、眠りの中で自然に天国に行くようになってほしい、という気持ちだと思います。
明日への希望がなければ、喜んで朝を迎えることなどできないでしょう。明日への希望が全くなく、大変な日々を過ごしている人であれば、本当に「明日の朝、目が覚めませんように」と祈りたくなると思います。しかし、少しでも明日への希望があるならば、朝日の光のありがたさが、きっと感じられるでしょう。
聖書においては、イエス・キリストのことを、「暗闇を照らす光」として、よくたとえられています。わたしたちは、暗闇の中で先が全く見えず、いくら頑張っても成果がなく、どこに行けばいいのかわからない人生を歩む時があると思います。
イエスはそのような人に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と語りかけてくださいます。この世の人々を愛し、今も人の道を導いてくださる神様が与えてくださる光こそ、イエス・キリストです。そのイエス・キリストは、自分がどこに向かっていけばよいのか、その道しるべになってくださいます。
流れる川に自分の身を任せるように、イエス・キリストに自分の人生を任せてみてはいかがでしょうか。光であるイエスは、きっとあなたの明日を正しく導いてくださると思います。そうであるならば、朝を迎えるありがたさ、喜びを感じることができるでしょう。
今日は日曜日、近くの教会で、イエス・キリストの言葉に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。神様は、あなたの訪れを心から待っておらます。
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