山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:イエスの権威はどこにあるのか(マタイによる福音書21:23~27)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
もし誰かに「あなたは何の権限でそれを語るのですか」と問われたら、どう答えるでしょうか。自分の肩書きでしょうか、実績でしょうか、それとも多くの人が自分を支持してくれているからでしょうか。
私たちは日々、「正当性」や「権威」が厳しく問われる社会に生きています。専門家の意見、公式な発表、数字で示される評価。そうしたものに囲まれながら、安心する一方で、いつの間にか縛られてもいます。
きょう取り上げ用としている聖書の箇所は、まさにその核心に切り込む場面です。「イエスの権威はどこにあるのか」。この問いは二千年前だけのものではありません。今を生きる私たち一人ひとりにも突きつけられています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書21章23節~27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
この箇所を深く理解するために、当時の状況を整理して置く必要があります。この出来事が起きたのは、イエス・キリストの生涯において最も重要な一週間、いわゆる「受難週」に起こった出来事でした。
その数日前、イエスはろばの子に乗ってエルサレムに「平和の王」として入城されました。そしてその直後、驚くべき行動に出ます。神殿の境内で商売をしていた者たちを追い出し、両替人の台をひっくり返されます。
エルサレム神殿は、当時のユダヤ社会の宗教、政治、経済の中心地でした。そこを支配していたのは、宗教的エリートである「祭司長」や「長老たち」です。これらの人々にとって、イエスの行動は自分たちの支配権に対する明白な挑戦であり、営業妨害であり、何より既存の秩序を乱す危険な反乱に見えました。
ヨハネによる福音書によれば、ユダヤの最高法院の議員たちは、祭りの期間中に騒ぎが拡大すれば、ローマ人たちが介入してくるとさえ恐れていました(ヨハネ11:47-48)。
翌日、再び神殿に現れたイエスに対し、彼らは詰め寄ります。
「何の権威でこのようなことをしているのか」。
これは、単なる質問ではありません。法的な裏付けや、公的な資格を問う、厳しい追及の言葉です。
イエスはこの問いに対し、直接的には答えず、逆に一つの問いを投げ返されました。
「ヨハネの洗礼は、天からのものか、人からのものか」。
これは単なる「はぐらかし」ではありません。実は、この問いの中に答えのすべてが隠されています。
洗礼者ヨハネは、イエスの先駆者として「悔い改め」を説いた人物です。民衆の多くは、彼を神から遣わされた真の預言者として尊敬していました。
この質問は、質問者たちをジレンマに陥れました。もし「天からのもの」と答えれば、なぜヨハネが証ししたイエスを信じないのかと問われます。しかし「人からのもの」と答えれば、ヨハネを預言者と信じていた群衆の反発を買います。政治的計算から、彼らは「分からない」と答えるしかありませんでした。
質問者たちの議論の中に、真理を探究しようとする姿勢は微塵もありません。あるのは「自分たちの立場をどう守るか」という保身の論理だけです。だからこそ「分からない」という無責任な言葉で逃げ切ろうとしました。
彼らが誠実に答えることを拒否したため、イエスご自身も「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と告げられました。これは、真理を拒絶する者に対して、神の言葉が閉ざされるという厳しい裁きの瞬間でもあります。
実はイエスの権威は、このやり取りそのものの中に現れています。人間的な「資格」や「家系」によって立つ宗教家たちに対し、イエスは神との直接的な結びつき、つまり「天からの権威」をもって、彼らの心の偽善を暴き出しました。まことの権威の源泉は、人間的な承認や制度的な地位ではありません。「天から」来るものか否か。それが本質的な問いです。
さて、この物語は二千年前の遠い国の出来事ではありません。今、このメッセージを聞いている、あなたの心に語りかけます。
私たちは皆、何らかの「権威」の下で生きています。 ある人は「世間の常識」という権威に従い、ある人は「お金や社会的地位」という権威を頼りにします。またある人は、自分自身の「感情や理性」こそが最高の権威であると信じているかもしれません。「他人の評価」という権威を当てにしたり、「世間体」という権威に縛られることもあるでしょう。
しかし、人生に嵐が吹き荒れ、自分自身の力ではどうしようもない困難に直面したとき、それらの権威はどれほど私たちを支えてくれるでしょうか。
祭司長たちは、真実がどこにあるかよりも、「自分がどう見られるか」「今の地位を失わないか」を優先しました。私たちもまた、自分の非を認めるのが怖くて、あるいは変化するのが嫌で、神の語りかけに対して「分からない」という言葉で蓋をしていないでしょうか。 「分からない」という言葉は、時に思考停止の隠れ蓑になります。神は、私たちが知識で武装することよりも、誠実に、正直に主の前に立つことを願っておられます。
イエスの権威は、人を支配し、抑圧するためのものではありません。それは、人を自由にさせ、新しく生かすための権威です。 イエスは、神殿を壊すためではなく、神とのまことの交わりを回復するために来られました。イエスの権威とは、病を癒やし、罪を赦し、死に打ち勝つ愛の力です。
もしきょう、あなたの心の中に「どう生きていけばいいのか」という迷いがあるなら、その人生のハンドルを、天からの権威を持つイエス・キリストに委ねてみてはいかがでしょうか。
祭司長たちは「答え」を計算しましたが、私たちには「告白」が求められています。 「主よ、私はあなたの権威を認めます。私の人生の主人はあなたです」と。 この告白から、本当の意味での「自由」が始まります。人の目を恐れ、損得勘定で動く人生から、神の愛の中で堂々と生きる人生へと変えられていくのです。
イエスの権威。それは、十字架において極限まで低くなられ、死から復活されることで証明された、唯一無二の権威です。 この権威は、きょうも変わることなく、あなたの人生を支え、導こうとしています。
宗教的エリートたちが「分からない」と背を向けたその場所で、あなたは「はい、主よ。あなたは神の子です」と答えることができるでしょうか。その一歩が、あなたの人生を永遠に変える光となることを信じています。








