11月23日(日) ルカ23章32-43節
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカによる福音書23章41節
「議員たち」と「兵士たち」は、主イエスに向かって「自分を救え」と嘲り、罵りました。「犯罪人の一人」は「我々を救ってみろ」と言いましたが、この言葉もまた罵りの言葉であって、救い主に対する懇願の言葉ではありません。
ここで彼らが考えていた「救い」とは、一体どういうものだったのか、それが問題です。主イエスを嘲り、罵った者たちは皆、都合よく状況を変えること―すなわち十字架から降りること―が救いだと思っていました。
ところが、ただ一人、そうではなかった人がいました。それは、自分の罪を認め、その罪の罰として与えられた十字架の刑罰もまた当然の報いとして受け入れた、「もう一人の犯罪人」です。彼だけは、罪深い者を赦す神の憐れみを信じて、とても控えめな言葉ながら、十字架の向こう側にある救いを求めたのです。
私たち罪人にとって必要なことは、自分の罪がなかったことにして、都合よく十字架を免れることではありません。自分の罪を認めて十字架を通して救われることです。罪人の十字架は当然の報いです。しかし、「何も悪いことをしていない」主イエスの十字架は、罪人を赦す神の憐れみを信じるすべての人のための身代わりであったのです。
【祈り】
十字架の向こう側にこそ救いがあることを信じます。









