聖書を開こう

結婚とは(マタイによる福音書19:1-12)

放送日
2025年10月9日(木)
お話し
山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:結婚とは(マタイによる福音書19:1-12)


 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 結婚というテーマは、誰にとっても身近でありながら、とてもデリケートな問題を含んでいます。

 喜びと祝福に満ちた結婚生活を思い描く人もいれば、現実には結婚のことで心を痛めている方も少なくありません。結婚したくても叶わない人もいますし、暴力や支配の中で苦しんでいる人もいます。すでに離婚を経験し、その傷を抱えている方もおられるでしょう。

 ですから、このテーマを軽々しく語ることはできません。聖書が結婚について語るとき、それは理想的な美しい関係だけではなく、人間の罪や弱さ、壊れやすさにまで目を向けているということを覚えることが大切です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書19章1節~12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

 今お読みした箇所に記されたやりとりを、順に見ていきましょう。

 まず注目したいのは、ファリサイ派の人々がイエスに近づいて、結婚や離婚について質問をしてきたことです。けれども、この質問は素朴な疑問から出たものではありません。

 マタイははっきりと「イエスを試そうとして近寄った」と記しています。つまり彼らの目的は、聖書的に正しい婚姻の理解を求めることではなく、イエスを陥れることでした。

 なぜ結婚や離婚の問題が、イエスを罠にかける題材としてふさわしかったのでしょうか。その背景には、当時の政治的にきわめて敏感な出来事がありました。

 すでに取り上げた箇所ですが(マタイ14:3以下)、洗礼者ヨハネは、ヘロデ・アンティパスの不正な結婚をあからさまに非難しました。そのためにヨハネは捕らえられ、牢に入れられ、最後には首をはねられてしまいます。つまり「正しい婚姻とは何か」というテーマは、権力者をも巻き込む危険な話題でした。

 さらに、この質問は宗教的にもきわめて対立を引き起こすものでした。申命記24章1節にはこう書かれています。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」

 この「何か恥ずべきこと」をどう理解するかで、当時のユダヤ社会は二つの学派に分かれていました。

 シャンマイ派は厳格に解釈しました。「恥ずべきこと」とは、性的な不貞など重大な過ちに限られるとしました。それに対してヒレル派は非常に寛大で、料理の味が気に入らない、夫の気持ちが冷めたといった理由でも離縁は可能だと考えました。

 ファリサイ派の人々がイエスに「何か理由があれば」と尋ねたのは、この論争にイエスを巻き込み、敵を作らせるためでした。どちらを答えても、別の陣営から反発が起こります。しかも、政治的な危険性も伴っていました。

 しかしイエスは、この狭い解釈論争には立ち入りませんでした。イエスは申命記の文言からではなく、さらにさかのぼって創世記に立ち返って話を始められます。

 「創造主は初めから人を男と女にお造りになった」
 「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」

 イエスは結婚の本質を、神が人を創造されたその最初の意図に求めました。結婚とは、ただの社会契約でもなければ、人間の都合に合わせて自由に解釈できるものでもありません。神が初めから定められた、創造の秩序に属するものです。

 では、申命記にある「離縁を認める規定」は無意味なのでしょうか。イエスはこう説明されます。

 「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」(マタイ19:8)

 つまり、申命記の規定は結婚の理想を語ったものではなく、人間の罪と弱さの現実に対応した妥協の規定に過ぎません。夫婦が互いに愛し合うべき関係を壊し、支配や従属、冷たい無関心に変えてしまったのは人間の罪の結果です。申命記はその現実の中で最低限の秩序を保つために与えられたものでした。

 けれどもイエスは、その妥協に立脚するのではなく、神が初めに人間を創造された秩序に立ち返るようにと招かれました。

 創世記二章に語られるように、結婚とは「二人が一体となる」ことです。それは単なる契約ではなく、神が結び合わせられるものです。だからこそ、イエスは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とおっしゃいました。

 ここでイエスは、結婚が、神の御手の働きによるものであることを示しています。そこには神聖さがあります。互いが支配し合う関係でもなく、一方が他方を消耗品のように扱う関係でもありません。神が結び合わせられた平等で親密な関係です。

 この教えを聞いた弟子たちは驚いて言いました。

 「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」(マタイ19:10)

 彼らにとってイエスの教えは厳しく聞こえたのでしょう。しかしイエスは、結婚することも、また独身を選ぶことも、神から与えられる召命であると語られました。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」とイエスはおっしゃいました。つまり結婚も独身も、神の前に尊い生き方であり、どちらが優れているということではありません。

 ここで、私たち自身の生活に目を向けたいと思います。

 結婚生活の中で悩み苦しんでいる方もおられるでしょう。配偶者からの暴力や支配に苦しむ方もいるかもしれません。聖書が結婚を神聖なものとして語るからといって、暴力や不当な扱いを我慢し続けることを勧めているのではありません。むしろ、神が望まれる結婚は互いの尊厳を認め合う関係です。そこに愛と平和がなく、人格が踏みにじられているならば、それは神の御心から外れています。

 また、結婚したくてもできない人、あるいは離婚の痛みを抱えている人もいます。イエスの言葉は、そうした人々を裁くためのものではありません。イエスは結婚の理想を語りつつ、同時に人間の罪と弱さをも深く理解しておられます。十字架の恵みは、結婚において失敗した人、傷ついた人、孤独に生きる人すべてを覆うのです。

 結婚においても、独身においても、私たちが本当に頼るべきなのは、生ける神です。人間の愛は不完全であり、しばしば壊れてしまいます。しかし神の愛は変わることがありません。その愛に根ざして生きるとき、どんな状況にあっても支えられるのです。

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