新井主一(高島平キリスト教会牧師)
メッセージ:信仰について~恥の多い人生~
おはようございます。高島平キリスト教会牧師の新井主一です。
今週は、キリスト教信仰について共に考えています。
私たちのこの国の国民性を指して、「恥の文化」と言われることがしばしばあります。それは、私たちが、兎角外面的な評価や世間体を気にしてしまうところから指摘された、鋭い評価であると思います。わたしにも、大いに心当たりがあります。クリスチャンになったからといって、この国民性と無関係に生活することは難しいからです。
聖書のヘブライ人への手紙の11章には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)と、信仰の何であるかが定義され、古の信仰者の姿が描かれていきます。そして、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。」(ヘブライ11:16)と続きます。
私たちは、生きてきた自分の姿を振り返る時、なんとも恥ずかしい歩みをしてきたことに、気がつくのではないでしょうか。しかし、信仰を与えられた以上、私たちは恥じてはなりません、神様が私を恥じないのですから。人目を気にして恥じるのではなくて、その時、神様に向き直って悔い改めるべきなのです。
誰にどう見られようと、さらに言えば、この私が私自身をどう見ようと、どう評価しようと、それは大した問題ではない。そして、その根拠が十字架です。罪なき神の御子が、大ぼら吹きのように嘲られ、なぶりものにされた挙句、衣を剥がれて十字架に付けられた。私のすべての恥を、主イエスが丸ごと引き受けてくださったのです。
主イエスの十字架は、わたしの恥も帳消しにして下さったのです。