山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:あなたはイエスを誰だと言いますか(マタイによる福音書16:13-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
こんな質問を投げかけられたことがあるでしょうか。「あなたは、私のことをどう思っているの」あるいは、「私という人間を、あなたはどう見ているの」
初対面の人にこんなことを聞くことはまずありません。しかし、お互いの関係が深まってきたとき、一度は経験することがあるかもしれません。友人関係であれば、さらに深い親友関係へと進もうとするときに、そんな質問が出るかもしれません。あるいは、恋愛関係にある二人であれば、もっと深い仲に進もうとするときに出てきそうな質問です。
それは、必ずしも相手に不信感を抱いたときに出る質問とは限りません。自分を本当にどう思っているのか、どう捉えているのかを知りたいという思いから出る質問です。ときには、それが関係の分かれ道になることさえあります。
きょう取り上げようとしている聖書の中にも、まさにこのような決定的な問いが記されています。イエス・キリストが弟子たちに投げかけた問い、これは、ただの質問ではありません。この問いは、私たち一人ひとりが答えるべき大切な問いでもあります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書16六章13節~20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
イエス・キリストとと弟子たちは、ある特別な場所へと旅をしていました。それは、「フィリポ・カイサリア」という町でした。ガリラヤ湖の北方、ヘルモン山のふもとに広がるこの地域は、ローマ帝国の支配下にあり、ギリシアやローマの神々が祀られていた宗教的に多様な町でした。特にパンと呼ばれるギリシアの神が祀られていた洞窟があり、宗教的な雰囲気の強い土地でした。
ユダヤ人にとっては、神以外の偶像が溢れている土地であり、ローマ皇帝を神とする文化のただ中にある町でもありました。イエス・キリストが弟子たちにこの質問を投げかけたのは、正にそういう雰囲気の中でした。
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」
まず、世間の声について尋ねます。弟子たちは答えました。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
当時のユダヤ人たちは、イエスの教えや奇跡を見て、彼が何者かを知りたがっていました。しかしその答えは、いずれも「預言者」としての位置づけにとどまっています。尊敬の念はありますが、それ以上ではありません。つまり、「神の子」ではなく、「神の使い」程度にしか見ていませんでした。
そして、イエスはさらに核心を突く質問をします。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
この「あなたがた」という言葉は、強調されています。つまり、「人々が何と言おうと関係ない。君たちは、私をどう思っているのか」と。イエスは真っすぐに弟子たちの信仰の告白を求めたのです。
この問いに答えたのが、弟子のリーダー格であったペトロです。
「あなたは、メシア、生ける神の子です。」
この告白は、まさに信仰の核心を突く言葉です。「メシア」とは、「救い主」のことです。旧約聖書で長く待ち望まれてきた、神によって油注がれた王、祭司、預言者。イスラエルの民が待ち望んだ救い主を指します。
しかしペトロは単に「メシア」と言っただけではありません。「生ける神の子」とまで言い切ったのです。つまり、彼はイエスを、ただの人間の教師でも預言者でもなく、まさに神から来たお方、神そのものとして、告白しました。このときペトロがどれくらい深くイエス・キリストのことを理解して信じていたのかは、分かりません。来週取り上げる個所には、イエスがご自分の身の上に起ころうとしていることを話されると、真っ先に異議を唱えたのも同じペトロでした。
しかし、それにもかかわらず。このペトロの信仰告白をイエス・キリストは肯定的に受け入れました。
「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
ここで注目したいのは、この信仰の理解が「人間の力」や「理屈」ではなく、神の啓示によって与えられたものであるという点です。イエスが神の子であることを知るのは、人の努力や観察力の結果ではありません。神ご自身が明らかに示してくださることです。
そして続けてイエスはこうおっしゃいます
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」
ペトロという名前は「岩」を意味します。この「岩の上に教会を建てる」とは、ペトロのような天から与えられた啓示、すなわち「イエスこそ神の子、救い主である」という啓示の上に教会が建てられていくという意味です。
「陰府の力もこれに対抗できない」とイエスは約束されました。世の中のどんな力も、死の力さえも、真の教会を打ち砕くことはできません。
さて、イエス・キリストが弟子たちに問いかけた質問、それは過去に生きていた弟子たちにだけ問われているものではありません。今を生きる私たちにも聖書を通して問いかけられている質問です。
私たちがこの問いにどう答えるかは、人生の土台そのものを左右します。
イエスを「神の子、救い主」として信じるとき、私たちは揺るがない岩の上に人生を築くことができます。困難や死に直面しても、希望を失わない力をそこに見出すことができます。逆に、イエスを単なる偉人と見るだけなら、その信仰には力がありません。
また、この問いは一度問われれば終わるものではありません。イエス・キリストを信じる人生の中で、繰り返し問われる問です。
「あなたは、今、困難のただ中で、病の苦しみの中で、孤独の中で、それでもイエスを救い主と告白できますか」と。