山下 正雄(ラジオ牧師)
メッセージ:信じない心の障壁(マタイによる福音書13:53-58)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世界的に有名なバイオリニストのジョシュア・ベルは2007年にワシントン・ポスト紙に協力して社会実験を行いました。
この実験でベルは、ワシントンD.C.の地下鉄駅で変装して演奏しました。何億円もするヴァイオリンの名器ストラディバリウスを使用して、非常に高度なクラシック音楽を演奏しましたが、多くの通勤客は足を止めることもなく通り過ぎていきました。四五分間の演奏で、彼に気づいて立ち止まったのはわずか数人で、集まったチップは32ドルにしかなりませんでした。
今日取り上げようとしている聖書の箇所にも、まさに「価値に気づかなかった人々」が登場します。彼らはイエス・キリストの驚くべき知恵や力を目の当たりにしながらも、それを受け入れようとしませんでした。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書13章53節~58節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
イエス・キリストは神の国についてのたとえ話をお語りになった後、ご自分の故郷ナザレにお帰りになります。ところが、故郷の人々は、イエスの語る言葉にも、行う奇跡にも驚きはするものの、素直に信じることができませんでした。
故郷の人々は言います。
「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」(マタイ13:55-56)
この言葉に込められているのは、いわば「よく知っている」という思い込みです。「この人がそんな特別な存在のはずがない」という先入観、そしてこのような先入観が、彼らの心を閉ざし、信じることを拒ませる原因となっていきます。
ある意味、彼らはイエスのことを知りすぎていました。子どものころからの姿を知っている。家族構成も知っている。何を今さら「預言者」などと名乗っているのか……。そうした心のつぶやきが、イエスを拒絶させたのでしょう。
イエスは、彼らの反応に対してこうおっしゃいます。
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」
これは古くからユダヤの社会で知られていた格言のような言葉で、旧約聖書に登場する多くの預言者たちも、実際、自国や自民族から拒まれてきました。たとえば、アモスやイザヤ、さらにはエレミヤにしても、時の支配者や民衆から歓迎されたわけではありませんでした。「今のままで良い」と考える人々に対して、預言者は常に神の意志を突きつける存在です。、その結果、反発を受けるのが常でした。
イエスご自身も、故郷では敬われず、むしろ拒絶される存在として立たされました。。
そして今日の箇所の最後は、こう記されています。
「人々が不信仰だったので、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。」
これはとても印象的な結末です。つまり、イエス・キリストの力が足りなかったのではなく、人々の「信じない心」が、神の御業を妨げたというのです。
福音書の中にはイエス・キリストが「あなたの信仰があなたを救った」と語る場面が何度も出てきます。信仰は単なる「気持ちの問題」ではなく、神との関係を開く扉なのです。
さて、ここまでナザレの人々の反応を見てきましたが、実はこれは2000年前の話にとどまりません。私たち自身の姿にも重なってきます。
現代の私たちにも、イエスを信じることへの「障壁」があります。それは単に知識が足りないからではありません。むしろ「知っているつもり」「理解できる範囲でしか信じたくない」という思いが、信仰の妨げになっています。
たとえば、「聖書って昔の神話ですよね」「神がいるなんて、科学の時代に信じられない」「目に見えないものは信じない」……こうした現代的な疑念もまた、ナザレの人々と同じ「信じない心の障壁」と言えます。
しかし、そのような私たちの心のあり方に対しても、イエスは失望されません。むしろ、その閉ざされた心の扉を叩き続けておられます。ヨハネによる福音書では、イエスはこう言われました。
「見ないで信じる者は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
信仰とは、すべてを理解してから持つものではありません。むしろ、理解を超えたところに立って、「信じてみよう」「信じてみたい」という一歩を踏み出すとき、神は私たちと出会ってくださるのです。
私たちがイエスを「大工の息子」としか見なければ、神の御業は見えてきません。しかし、逆に「この方こそ神の子」と信じるならば、日常の中に神の恵みや導きが見えてくるようになります。
たとえば、病の中にあるとき、孤独の中にいるとき、あるいは希望を失っているとき、イエスは私たちのそばにおられ、心に語りかけ、導いてくださいます。ただし、それに気づくには、私たち自身の心が「信じる」方向に開かれている必要があります。
今日、お伝えしたいのはこのことです。信仰とは、目に見える証拠がそろったから始めるものではありません。むしろ、神の存在や愛、そして救いに対して「心を開いてみよう」とする、小さな一歩から始まります。
ナザレの人々は、その一歩を踏み出すことができませんでした。その点では今を生きる私たちにも似ているところがあるかもしれません。
しかし、イエス・キリストの時代から今日に至るまで、すべての人が心を閉ざしたわけではありませんでした。信じる選択をした人たちが、どの時代にも、どの地域にもいました。そして、今も途絶えることがありません。
イエス・キリストははあなたのそばにおられ、静かに語りかけておられます。
どうぞ、今日このとき、あなたの心の扉を少し開いてみてください。そこに、思いがけない神の恵みがあふれて来るのを、きっと感じ取ることができるようになるでしょう。