リジョイス聖書日課

ヨハネ20章11-18節 泣く者に復活のよろこびを

放送日
2025年4月20日(日)
お話し
小橋口 貴人(那加教会牧師)

4月20日(日) ヨハネ20章11-18節

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』ヨハネによる福音書20章16節

週の初めの日、朝早く、マグダラのマリアはイエスが葬られているはずの墓に急ぎました。ところが、イエスの遺体がなくなっていたのです。私たちは死に対して無力です。人を生き返らせることなどできませんし、死別の悲しみは簡単に消えません。愛する人の死を、なかなか乗り越えることができません。マグダラのマリアは、せめて自分ができることをと思って主イエスの墓に向かったのでしょう。しかし、空になった墓の外で、泣くことしかできませんでした。

 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。主がどこにおられるのかわからない。人間の根本的な苦しみではないでしょうか。主を見失うとき、私たちはどう生きていけばよいのか分からなくなってしまうのです。実は、よみがえられた主イエスは、マリアのすぐ後ろにおられたのですが、悲しみのあまり、信仰の目がふさがれていたのでしょうか、マリアは振り向いてもそれが主イエスだとわからなかったというのです。

 主イエスは「マリア」と言われました。ようやくマリアは気づきます。主が生きて、ここにおられると。イースターの喜びです。たとえ目に見えなくても、御言葉を通して、確かに主が生きておられることを知るのです。

 【祈り】

 死に勝利し、よみがえられた主よ。復活の希望に私たちの目を開いてくださいますように。